三位一体論(神は唯一であるが父、御子、聖霊という三つの位格がある)やキリスト論(キリストの神性と人性)が築き上げられている過程に関わることがらが述べられていますから、書名に「キリスト教」とか「キリスト教の生い立ち」という言葉がまったくの偽りというわけではありません。
しかし、イエスに始まる原始キリスト教会や教会の発展の歴史が述べられているわけでもなく、三位一体論やキリスト論の形成に関しても、本道を進むというよりは、細かな脇道の煩雑な議論に入り込んでしまっている部分が多々見られ、そこは、すっとばしました。
「本書はキリスト教の入門書という性格を備えています」(p.5)という言葉は、上述のとおり、誤解を与えます。
執筆者もうしろめたさがあるのか、「細かいことはあまり気にせずに読み進めていってください」(同)と記してあるので、そのようにさせていただきました。気にしないどころか、そこは読みませんでした。ページをめくっただけです。
本道を進むための「細かいこと」なら良いのですが、じつは、「キリスト教の生い立ち」が本道ではなく、たとえば「九世紀のフォティオスによるクレメンス文書の報告は正しいか」(p.68)といった、キリスト教の生い立ちとはかなり離れたことの研究の方が本職ではないのか、そういうものを適当に並べて、「キリスト教の生い立ち」についての本に「仕立て上げた」のではないか、と思ってしまいます。
著者の細かい研究の叙述では売れないので、こういう題にして、多少手を入れたのではないか、と疑ってしまいます。
しかし、非専門家のぼくにも有益だった箇所はありました。
「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」(ルカ1:1-2)。
この「御言葉」がロゴスであり、イエス・キリストを指していることにはこれまで気づきませんでした。イエス・キリストをロゴスと呼ぶのはヨハネだけだと決めつけていたからでしょう。
ニカイア信条の、普及している日本語訳では、キリストは「造られずして、生まれ」とありますが、ここは、「生まれたものであって、造られたものではない」と訳した方がよさそうです。
というのは、ぼくは「造られずして、生まれ」を「人間の親が生殖行為によって造ったのではないが(つまり処女降誕)、生まれてきた」と解釈していましたが、そうではなく、「造られずして」は「被造物ではない」つまり「創造者、神である」ことを意味し、「生まれ」は「父なる神の子である」ことを意味するそうです。
そうすることで、キリストは父の子ではあるが、被造物ではなく、父なる神の下位存在ではなく、同質であり、神そのものであることを意味するそうです。