371  「聖書やキリスト教史の主な出来事を、抗争・親分子分の関係から復習できます」 「仁義なきキリスト教史」(架神恭介、2016年、ちくま文庫)

 出エジプト記、イエス物語、最初期のキリスト教会、パウロ物語、ニカイア公会議叙任権闘争、十字軍、宗教改革、といった聖書やキリスト教史の主たる出来事や人間関係を、やくざの抗争や親分子分関係に見立てて書き直した(著者によれば)「小説」「娯楽作品」。

 とはいえ、本文、解説、そして参考文献を見れば、聖書やキリスト教史を専門書に基づいて相当に勉強していることがわかります。ですから、聖書やキリスト教史を少しかじった人には、この本はよい復習にもなることでしょう。

 イエスや弟子たちの日常の活動は「主に病気見舞いであった」とあります。聖書の記している通りです。けれども、その解釈がユニークです。「イエスが『おやっさん(※ヤハウェのこと=引用者注)にわしからよう言うとくけえ』と一声かけるだけで、安心からか、病状の軽くなる病人は少なくなかったのである」(p.17)。ユニークと言いましたが、合理的とも言えるでしょう。

 「隣人とは極道用語で、身内の者、組の者、といった意味合いである。もっともイエスの言う『隣人』は従来のやくざの考える隣人の概念とは相当異なるのであるが」(p.59)。このあたりからも著者がよく勉強していることが伝わってきます。

 「過越祭とは、殺戮に熱中するヤハウェ大親分が、自分たちの家を過ぎ越して行ってくれたことを記念する祭りなのである」(p.61)。「見える。わしには見えるんじゃあ! ヤハウェ大親分の隣にイエスおやっさんがおる姿が、はっきり見えるんじゃあ!」(p.105)。「おやじぃ。この阿呆どもを許してやってつかぁさいやァ!」(p.106)。おみごとです。

 「ナザレ組事務所を取り巻く群衆たちを前に、瞼を赤く腫らし、泣きながら訴えるペトロの姿があった。彼の特技はいつでも泣けることである」(p.110)。泣いているペトロには申し訳ないけど、笑えます(^o^)

 パウロの言動については、聖書は情報不足、情報欠如なので、著者も想像で補ったようですが、「聖書学者の方々の説明もこの辺りは想像が多い」(p.170)。これは、聖書学者を貶めているのではなく、むしろ、歴史を描くとはどういうことかよくわかっておられると思いました。聖書学者だけでなく、牧師もそうだと思います。

 「ニカイア公会議に関して簡単に解説すると、これはイエスのキャラ設定の問題である」(p.207)。冷静かつ明快かつ愉快な表現です。

 モーセヤハウェイスラエルの民との関係において繰り返された殺戮(ヤハウェはすぐに怒り、民を殺した)を踏まえれば、「心を尽くし、精神を尽くし、力をつくして、あなたの神ヤハウェを愛さなければならない」という言葉には、ヤハウェをこれだけ愛さなければ、自分が殺される、という(キリスト者の感覚とはまったく違う)意味が、汲み取れるというくだりも斬新でした。

 著者はあとがきで、旧約は「排他的」「暴力的」色合いが強く、新約は「内輪揉め」や「罵倒」だらけ、それ以降の歴史も「暴力や派閥抗争ばかり」と述べています。たしかにそうだと思います。キリスト教徒の中には反発を覚える人もいるかも知れませんが、信者ではない人にはそのように見えるのが当然だ、という感覚を信者も取り戻した方がよいかも知れません。

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