この本では、非正規雇用労働、五輪の暴力、電力、食、気候不正義、外国人労働者、野宿者差別、水俣病、水平社、被災地、アイヌ・・・このような「社会問題=社会ゆえに生じそれゆえに社会の枠組みで考えなければならない問題」が挙げられています。
ぼくは、二十代のころ、視覚障がい者、日雇い労働者、在日外国人・・・このような、やはり「社会問題」を考えざるを得ないような、人との出会いを経験し、そこにある差別はとうてい許されない、いますぐなくならなければならない、と思いました。けれども、そのために、斎藤さんのように思想家、思想研究者になるという発想はありませんでした。そのような人権活動のようなことを職業にしたいとは思いましたが。
その意味でも、斎藤さんの思想のみならず経験を述べたこの本はおもしろく読めました。
「工業型畜産による動物の命の支配は、動物たちに生涯にわたって苦しみを与え続ける残酷なシステムを生み出してしまったと生田さんは批判する」(p.108)。
これは生田武志さんの「いのちへの礼儀」に記されているそうです。工業型畜産に対して、「狩猟においては、私たちが自然を支配する圧倒的な存在としてではなく、動物と直接に対峙し、動物の感じる痛みも最後の一瞬に限定している」(同)そうです。
工業型畜産は動物に大きな負荷をかけますが、さらには、たとえば、「ファッション産業の環境負荷はすさまじく、世界第二位の汚染産業と言われている。コットン栽培による土壌汚染、大量の水使用、化学繊維によるマイクロプラスチック汚染、そして、途上国の労働者たちからの搾取」(p.115)。
そうだったのですね! では、世界第一位の汚染産業は何なのでしょうか。化学工業? 原子力産業?
斎藤さんは「人新世の「資本論」」では「SDGsは大衆のアヘンである!」と書いているそうです。お店にはペットボトルやプラスチックに包まれた商品ばかりなのに、レジ袋を買うだけのことで環境保護に大きく貢献しているような錯覚を起こさせるからです。そして、ある種の宗教と同じように、本当の問題を見失わせるからです。
「「今まで部落でやってきたことが、社会問題の解決に役立つ」と池谷さんたちは言う。差別をなくす手段として、地域との交流を深めていく方法は、差別に対する抗議や糾弾というかつての社会運動とは違う、若者らしい発想なのかもしれない」(p.170)。
これは、「高齢者が立ち寄れるカフェや子ども食堂」「隣保事業」「誰でも相談できる場所づくり」「セーフティネット」などを指しています。
むろん、「抗議や糾弾」を支えた、差別を見抜き、差別に反対する思想も、たとえば、セクシュアルマイノリティ差別反対にも生かされるのではないでしょうか。
斎藤さんは「コミュニズム」を唱えますが、これは「ソ連や中国でイメージされる社会主義・共産主義とはまったく関係がない」(p.202)と言います。では、どんなものかと言うと、「自然環境、水道・電力などの社会的インフラ、教育、文化などの資本制度を「脱商品化」」(p.200)し、その管理に「専門家以外の参加者が自発的に参加できるような、自治の仕組み」(p.201)、つまり、「民主的」な仕組みを作ることです。
しかし、それは、マジョリティ間での「民主」ではなく、マイノリティも参加する「包括的な平等」(同)でなくてはならない、と補足されます。
最後に、斎藤さんは「研究者の暴力性」を告白しています。「研究者である私は、当事者・被害者ではない・・・当事者の苦しみを限られた時間ですべてを理解することはないだろう」(p.213)。
誠実だと思います。さらに言えば、コモンを守り民主的で平等な社会を大学で研究する人たちは、間接的ではありますが、コモンが失われ非民主的で不平等な社会の犠牲者を、どこかで「飯の種」にしてしまっている可能性があるのではないでしょうか。あるいは、そのような社会の研究や探求、実現追及については、無報酬でやっている人々もたくさんいることも忘れてはならないでしょう。