日本ではなぜ「学歴に価値がある」とされるのでしょうか。それは「学歴に価値がある」と思っている人が多いからです。かりに、学歴に価値はないと思っている人が多い社会があるとすれば、そこでは学歴には価値はあるとはされません。つまり、「学歴に価値がある」ということは客観的なことではなく、ある人々が学歴に価値あるものだという意味付けをし、それが当然だとする社会を作り出したに過ぎないのです。本書ではこれを「意味世界」と呼び、それはフィクションであると著者は言います。
しかし、わたしたちが学歴社会、意味世界、フィクションの外に身を置いて「学歴に価値がある」などとおかしいと批判できるかというと、著者によれば、それは、神の座であり、わたしたちは学歴社会の中にとどまることしかできません。
それでは、しょせんわたしたちも学歴社会の一部だから何もできないかというと、そうでもありません。学歴社会において、学歴に価値があると意味付けする人もいれば、そんなものには価値がないと意味付けする人がいます。しかし、人それぞれだから仕方がないというのではなく、著者は「何らかの共通に受け入れることができるような意味世界の部分を新しく見つけ出すべきだ」(p.239)と言います。
たとえば、学歴主義の人は「学歴のある人は実力がある」と考え、学歴主義を否定する人が「学歴がない人でも実力のある人はいる」と考えていたとすれば、「実力」が共通に受け入れられるものということになるでしょう。
さらに、実力のある人は生きる権利があるという考えと、実力があると思えない人も生きる権利があるという考え、実力などというものはフィクションに過ぎず誰にも生きる権利があるという考えがあるとすれば、「生きる権利」が共通項になるでしょう。
著者は言います。「社会科学者が日常生活の外部に立って、その意味世界とは異なる客観的な意味世界を構築するしかない、という判断が間違いなのだ。そうではなくて、対象世界の内部に属しながら、なおかつ『客観的な』ものをめざすというのが、社会科学の方法でなければならない」(p.236)。
「『よりよい共同性とは何か』『それはいかにして可能か』を探求・・・階層研究、差別研究、ジェンダー研究、環境社会学、社会保障研究など・・・」(p.264)。
「人を殺してはならない」「人から盗んではならない」。このふたつは、頻繁に恒常的に犯されつつも、人の社会の早い段階で「共同性」として現れたのではないでしょうか。そういう意味では、わたしたちが今作り上げている世界の外にある「客観的な意味世界」(p.236)に近いようにも思えます。
いずれにせよ、「よりよい共同性」を目指す際に、「人を殺してはならない」「人から盗んではならない」という古からの共同性が土台になることでしょう。差別、ジェンダーにおいて共同性を築く場合も、「殺すな、盗むな」が基礎になることは間違いありません。
しかし、それだけで単純に済ませることも許されず、そのことにおいて、どういう言動が人を殺し人から奪うことになるのか、そうしないためには、どうすべきか、広く深く粘り強く何人もで議論しながら考えなくてはならないでしょう。そうすることで、学歴や差別やジェンダーにおけるフィクションを少しずつ乗り越える道が開かれると考えます。