偶像崇拝はどうして禁じられるのでしょうか。それは、神ではないものを神として崇めるからです。たとえば、信仰のように見なされるものでも、それがある時期の自分の思いに固執することであり、自分の奥底につねにあらたに湧き出し続ける声(自分の声であるようで、それは、じつは、自分の根源からの声・・・)に耳を貸さないことであれば、それはじつは、偶像崇拝なのです。
さて、本書の最初の方で、「目の前にいる人、事、思念をめぐって、『これは何なのか』ということを考えていくのが批評です」(p.12)と若松さんは述べています。そして、詩にもこの要素があると言います。
つまり、批評とは、作品の出来不出来を論じることではなく、この作品は何なのかを作家と一緒になって掘り下げていくことなのです。いや、「この作品は何なのか」というよりも、「この作品、この言葉において言い表そうとしている、作家が見たものは何なのか」と、作家とともに考えていくことなのです。作家はあるものを見た。それを言葉にした。その言葉を読む、批評するとは、あるいは、その言葉を読んで何かを書くとは、作家が見て、言葉にしようとしたものを、ともに見ようとすることなのです。あるいは、ともに聞こうとすることなのです。
もっとも詩人が見たもの、見たことを言葉ですべて語り尽くしているわけではありません。詩人が言葉にしようとしてし切れなかったものがある。それこそが、偶像ならぬものです。根源的なものです。「茨木のり子をしても語り得なかったこととは何か」(p.16)を考える。それが詩を読むことです。
根源は語り得ません。語り得たとされるなら、その瞬間、それは根源ではなく、偶像になってしまいます。
「意味の捉え方としての正しい読み方は存在しない。正しい読み方はないけれど、無限の可能性の中に普遍的なものを見つけることはできるかもしれない・・・違う考えの中に普遍的なものを見つける・・・」(p.34)。
ある読み方が唯一正しい読み方とされたとき、それは偶像崇拝です。根源的なもの、普遍的なものは、ひとつの形に固定されず、形をとるとするならば、「違う考え」、さまざまな考えという形しかとれないのです。
ところで、茨木さんと言えば「自分の感受性くらい」ですが、若松さんは、「感性は万人に平等に与えられている」(p.42)としたうえで、「感受性とは、みなに平等に与えられた感性がその人らしく開花している状態のことを指します」(同)とします。
根源なるもの、普遍的なもの、ある人びとが神と呼ぶものへの感性は誰にでもあるが、その感性が咲かす花は人それぞれだということではないでしょうか。人は皆永遠なるもの感じ、その感じたものをそれぞれの形で表現します。ある人は神は天にいると言い、ある人は死んだおじいちゃんが空から見ていてくれると言います。詩とはそのようなものではないでしょうか。
茨木さんのある詩に「耐えきれず人は攫む/贋金をつかむように/むなしく流通するものを攫む」とあります。(耐えきれず攫んだものは贋金であり偶像でしょう)。これを受けて、若松さんは「奇妙に聞こえるかもしれませんが『答え』は私たちをしばしば不自由にし、『問い』は私たちを自由にします」(p.63)と言います。「答え」も贋金であり偶像でしょう。
詩を読むとは、贋金を攫むことではなく、詩人の問いを共有し、ともに考えることです。茨木さんが、自分には語り得ないと知っていて、それでもなんとか語ろうとして、それでもやはり語り得なかったことを、わたしたちも、それでもなんとか語ろうとすることが、詩を読むことであり、詩を書くことなのです。