歌手・沢知恵の母親の父親は、詩人・金素雲だ。岩波少年少女文庫にある朝鮮民話選「ネギをうえた人」の編者でもある。
この金素雲の「朝鮮民謡選」を、茨木のり子は少女時代に愛読していたという。ハングルを学んだのは五十過ぎてからとのことだから、民謡は日本語訳だったのだろう。けれども、数十年後の学習の土壌となったと思われる。
本著には、茨木がハングルを学んだ動機や、すぐれたその教師、日本語とハングルを並べて考えること、韓国旅行で出会った人々などについて述べられている。
ただ外国語を学びたかった、ということではなかった。金芝河が獄中にいたころ、日本の詩人は、まず彼の詩を読むことではないか、と問いかけられた。来日した韓国詩人に日本語が上手だと誉めると、日本語教育を強要されたからだとの返事に打ちのめされる。今度はこちらが必死にハングルを学ばなければならないと痛感する。茨木のハングル学習には歴史的必然性があった。
のちに、韓国旅行に行き、カタコトの朝鮮語を口にすると、自分たちの言葉を学んでくれてありがとうと感謝された。日本語を学んでくれてありがとうという発想がわたしたちにはないことに気づかされる。植民地支配下で、朝鮮語を話した日本人は警察官だけだったという。
例外はいる。浅川巧という人だ。ネイティブ話者と間違えられたと伝えられる。茨木はその墓を訪ねる。そこで、半世紀前に亡くなった浅川がいまだに韓国の人びとに敬愛されているかを知る。いや、浅川の人格だけでなく、もしかしたらそれ以上に、浅川を大事にする韓国の人びとに胸を打たれる。浅川の墓地訪問記に巻末に近い何頁かがあてられている。
最後の十数頁は夭逝の詩人・尹東柱に割かれている。27歳、福岡刑務所で獄死させられた。遺骨は父親に抱かれ、帰国する。茨木は玄界灘を下関から釜山まで渡るとき、晴れた夜であったにもかかわらず、濃霧、あるいは、濃密な空気に囲まれる。聞けば、何十年か前、尹の父親は骨灰の一部をその海に蒔いたと言う。
茨木のり子さんには、中国から北海道に強制連行されたりゅうりぇんれん=劉連仁を謡った長い詩がある。沢知恵さんはこれに曲をつけて、ライブで歌い、CDも出している。
日本は、朝鮮、中国にもっと真摯な姿勢で向かいあえば、もっとゆたかになる。政治と歴史は、もっと詩的であった方がよい。