722 「福音書の言葉の奥底にある、読者の真実」 ・・・ 「新約聖書 福音書 2023年4月 (NHKテキスト)」(若松英輔、NHK出版、2023年)

 本書のキーワードのひとつは「コトバ」でしょう。

 

 「文字をなぞっているだけでは十分ではない。文字の奥に言葉を超えたもう一つの「コトバ」を感じなければならない」(p.7)。

 

 「これから「コトバ」と書くときは、文字や声と言った言語には収まらない意味の顕われを意味することにします」(p.7-8)。

 

 「私たちも「福音書」を読むときは、書かれていることを単なる情報として受け止めるのではなく、言葉だけでなく、その奥にあるコトバを深く味わいたいと思います」(p.11)。

 

 コトバそのものは「言葉」には収まらないと若松さんは述べていますが、本書では、そのコトバの「深い味わい」が言語で表されています。それは、もちろん、言語にできないコトバと言語との間のぎりぎりの営みでありましょう。

 

 その営みは、読者であるぼくがこれまで経験してきた聖書の味わいを深めてくれます。

 

 たとえば、こういうことです。

 

 ルカによる福音書には、イエスは「聖霊と火」で洗礼を授ける、とあります。

 

 この「火」は、「神からの浄めのはたらきであり、人間の側から見れば、この世で生きていくうえでの試練そのものだといえるかもしれません」(p.27)と若松さんは言います。けれども、この試練は罰でも災難でもありません。「人は試練に出会うと、内にある憎しみや恨みといったものが炎のように燃え上がって苦しみますが、それも神の火にふれるとき、まったく異なる心情に昇華されていく」(p.28)。

 

 神の「火」は、人間の憎しみや恨みという「炎」をはるかにしのぎ、憎しみや恨みと異なる心情、つまりは、愛や感謝に昇華してくれる、と言うのです。ここには、「火」という言葉の奥にある「昇華の火」というコトバの味わいがあります。

 

 あるいは、こういうことです。

 

 聖書に頻出する「罪」という言葉ですが、「罪とは・・・「的外れ」な状態、つまり神とともにいない状態。人間は「生きている」だけでなはなく「生かされている」存在でもあって神の働きなくしては生きられないのに、自分の力だけで生きられると思い込んでいる状態のことです」(p.29)。

 

 罪を文字や言語だけでとらえると「犯罪」「悪いこと」「してはいけないこと」ということになりがちですが、これをコトバの次元で味わうと、「神の働きなくしては生きられないのに、自分の力だけで生きられると思い込んでいる状態」ということになるのです。

 

 さらには、こういうことです。

 

 マタイによる福音書には「柔和な人は幸いである」という有名な句がありますが、若松さんの味わいはこうです。「柔和な人とは「頑なではない人」ということです。頑なとは「自分が正しい」と信じて疑わないということです。それは自分の価値観が絶対的だと思い込むことだといえるかもしれません。柔和な人はその反対で、自分がわからないことにも意味がある、むしろわからないからこそ意味があるのだと理解している人だといえそうです」(p.33)。

 

 マルコによる福音書には、イエスの後ろから衣に触れた女性の話が出てきます。若松さん曰く、「「イエスの衣に触れる」ことを通じて表現されているのは、真に願う、真に祈るということです」(p.37)。

 

 ヨハネによる福音書には「ユダヤ人」という言葉が頻出して、ユダヤ人は悪く解釈されがちですが、若松さんは、「「ユダヤ人」であることに意味があるというよりも、神とのつながりを、つい忘れがちな普通の人間たちという理解でよいと思います」(p.38)といいます。

 

 その通りだと思います。そうすると、自分たちはイエスをキリストと信じるから救われるが、ユダヤ人はそうしないから救わない、という、キリスト教徒にありがちな構図はなくなります。ユダヤ人というよりは、わたしたちは皆、神とのつながりを忘れる罪の状態に陥りがちなのです。

 

 ルカによる福音書に「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人々である」とあります。「自分たちが「これで決定的だ」と考えていたものの奥に、思いもよらなかった世界が開けてくる、そういう経験こそが「幸い」だといえるのかもしれません」(p.40)。

 そうであれば、わたしたちが「もうだめだ。どうしようもない」と考えてしまっている状況の奥に、いや、神さまがともにおられる、神さまが道を切り開いてくださる、というコトバが与えられる。これも「幸い」そのものでありましょう。

 

 マタイによる福音書で、しもべが病気で死にかけている百人隊長がイエスに、来ていただかなくても結構です、「ただ、お言葉をください」と言う場面があります。これについて、若松さんは、「百人隊長は、部下のいのちを軽んじたのではありません。しかし、彼は、その人物が遠からず逝かねばならないことも深く認識していたのです。だからこそ、彼は部下に永遠なるものを届けたいと願った。この隊長は、病気治療という行為より、イエスのコトバこそ朽ちることのないものであることを熟知しているのです」(p.49)と書いています。

 

 たしかに、わたしたちは病気が治ること、この世での願いが叶うことを祈りますが、さらに祈るべきは、永遠のいのち、朽ちることのない神とのつながりでありましょう。

 

 ルカによる福音書に「もし彼らが黙れば、石が叫ぶであろう」というイエスの言葉があります。若松さんによれば、「ここでの「石」は、語ることを奪われた人たちの象徴として読むことができます・・・彼は「石」の声、つまり、虐げられた人の声にならない呻きをけっして聞き逃さない」(p.61)とあります。

 

 マルコによる福音書に「目を覚まして祈りなさい」とあります。若松さんは「「目覚めている」とは、自分以外の悲しみや苦しみに向かって開かれているということだともいえそうです」(p.67)と解しています。

 

 さて、福音書、そして、キリスト教において、もっとも深いことは、イエス・キリストの復活です。復活という言葉は使っていませんが、若松さんはこう述べています。

 

 「イエスの弟子たちは、イエスが亡くなってから、師の存在をはっきりと感じるようになったといってもよいように思います」(p.85)。

 

 イエス・キリストが復活したとはまさにこのことではないでしょうか。イエスがせっかく墓から出てきても、それが誰にも感じられないのなら、意味はありません。ただの超自然現象です。けれども、そのことによって、死んだはずのイエスが今生きているお方としてはっきりと感じられる、やがては、目に見えなくなるけれども、それでも感じられる。そこには、生きているイエス・キリストと生きている人びとの深い交わりがある。これこそが復活です。

 

 マルコによる福音書はイエスの言葉をこうしるしています。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」。

 

 これを若松さんは以下のように味わっています。「「ガリラヤ」は、外にあるだけでなく、わたしたちの内面にもあるのではないでしょうか。さらにいえば、私たち自身が「ガリラヤ」であり、イエスは、私たちが、気が付かない姿でいつも寄り添っている、そう告げているのではないでしょうか」(p.99)。

 

 ここに、復活したイエス・キリストの姿があります。福音書には、イエス・キリストが「21世紀の読者であるわたしたち」とたしかにともにいる、とは明記されていませんが、言葉や文字の奥にあるコトバの味わいは、まさにわたしたちがこのように味わう、ああ、イエス・キリストがわたしとともにおられる、神がわたしとともにおられる、と心の奥底にまで味わうことではないでしょうか。

 

 

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