403 「文字を読み、目に見えない世界の根源へ」  「池田晶子 不滅の哲学」(若松英輔著、トランスビュー、2013年)

 若松さんを真剣に読めば、あらゆる書物の読み方、世界の観方が変わることだろう。目に見えず、手で触れることのできない、世界の根源へと招かれて行くことだろう。

 たとえば、聖書。じつに、さまざまな読み方がある。文字通りに読んだり、歴史的背景を考慮に入れたり、あとからできた教義に従って読んだり。

 けれども、若松さんは、聖書の文字を、目に見えない世界の窓として読む。文字は文字に過ぎないと言うのではない。

 「文字はそもそも、コトバという天界の声にかたちを与え、言葉に変えるものだった。また、文字は、コトバをこの世に刻み込み、『定着』させる働きをもつものだった・・・・・文字はいつも『神とともにあり、文字は神であった』」(p.62)。

 このコトバは、まちがいなく「 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ福音書1:1)の「言」と同じものだ。

 「コトバはなかなか書き手に身をゆだねてはくれない。書く意志が薄らぐとき、コトバが姿を現わし始め、自ら語り始める」(p.219)。

「ロゴス」や「ロゴス・キリスト論」のような教義によるよりも、ヨハネの味わいがずっと濃くなる。

 「コトバは、その姿を自在に変えて人間に寄り添う・・・読み手は文字を読みながらときに、色を見、音を聞き、永遠を感じたりもする。読むとは、コトバに照らされ、未知の自己と出会うことでもある」(同)。

 かつて神学が語ろうとした意味が、神学用語の使われることなしに、息を吹き返す。

 「池田晶子の哲学は、『言葉はそれ自体が価値である』の一節に収斂する。そこには、言葉それ自体が絶対であり、救済は言葉によってもたらされる、という彼女の経験が生きている」(p.203)。

 キリスト教徒ではなかった池田さんこそが、創世記1章1節をよく知っていた。

 「『われ考えるゆえにわれあり』の『われ』は、旧約聖書の創世記において『光あれ』といった、超越の『われ』の再臨にほかならない、と彼女は読む。私たちが『考える』とは、即自的に大いなる『われ』の思索である、というのである」(p.171)。

 デカルト研究者や聖書学者はうなずかないかもしれない。けれども、目に見えないもの、超越者を志向する者たちによって、文字の向うのコトバへの窓が開かれつつあるのではなかろうか。

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