298  「イエス現象二千年の堆積から現われ出る世界の叡智」

「イエス伝」(若松英輔中央公論新社、2015年)

「イエス伝」とは何でしょうか。「家康伝」と言えば、家康生涯の言動について歴史家や作家が記した書物を指します。つまり、「家康を伝える」物語のことです。

では、若松さんの「イエス伝」は「イエスを伝える」記述なのでしょうか。新約聖書にはイエスを伝える四つの書物があります。「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」。

これらは、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝とも呼ばれます。けれども、マタイ伝は「マタイを伝える」お話しではありません。マタイが書いた、イエスを伝える書物です。

マタイ伝とは、マタイを伝えるのではなく、マタイが何かを、イエスを伝えているのです。ならば、このイエス伝においても、イエスをも伝えてはいますが、イエスが何かを伝えているのではないでしょうか。さらには、その何かとは、イエスが伝えるものであると同時に、イエスを通して、何者かが伝えるものではないでしょうか。

目に見える一輪の野花の奥底には、目に見えないけれども、それを咲かせる神・・・あるいは叡智、世界の源泉と言っても良いでしょう・・・が潜んでいる。いや、神は野花を通してご自身の存在やいのちを現している。ぼくは、若松さんの何冊かを読むにつれ、こう考えるように導かれました。

同じように、神は、あるいは、叡智は、イエスを通して・・・イエスだけではありませんが、イエスをも通して・・・生者と死者、そして、この世界をあらしめるいのちを伝えているのではないでしょうか。

エスは野の花や空の鳥や生ける者や死ねる者の奥底にこのいのちを見たのです。そして、聖書はそのイエスの、さらには、このイエス伝はその聖書の、奥底に、このいのちを見たのです。

この場合、イエスや聖書は、二千年前のものに留まらず、今日に至るまでイエスや聖書を味わい掘り下げてきたあらゆる言動、現象の堆積を意味します。

このイエス伝もまたそのような堆積を誘う予感がしてなりません。

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