村澤さんの「中井久夫との対話」とか「都市を終わらせる」とか「福音と世界」に連載中の「霊性のエコロジー」とかがおもしろかったことがあり、また、広島の山地に移住した友人が開く「里山オイコス」というZOOM集会に参加していることもあって、本書を読むことにしました。
生物学、環境学、法律、行政、世界の環境条約など、専門的で難しく感じ、読みとばしたところもありますが、以下のようなことが心にとまりました。
まず、「里山」とはどんなところなのでしょうか。
「一般には、里山とは人間の住んでいる地域(里)に隣接し、人々に活用されてきた自然環境のことを指す言葉である」(p.3)。
「里山とは、日々の暮らしに必要な薪炭や山菜やキノコや農作物などを得るために長きにわたり利用されてきた自然である。人が自然に働きかけて、二次林や農地やため池や草地を作り上げ、限られた資源を枯渇させずに使うための共同利用の規律が生み出された。さらに、人が自然と関わることで自然の働きへの畏敬の念や農作物の豊穣への祈りや信仰や祭りなどの儀礼や風習を生み出し、里山は日本人の精神世界や生活文化のゆりかごでもあった。また里山の森林・草地・水路・ため池といった人が作り出したモザイクな環境は、人の意図を超えて多様な動植物の生息を可能にした。このような里山の景観や生活文化は、人が自然との長い関わりの中で作り上げてきた歴史文化遺産ともいえる」(p.65)。
ここで言われている「共同利用」は、「コモンズ」や「入会(いりあい)」(p.283)にも重なることでしょう。これは「貧困削減」(p.14)にもつながります。
あるいは、里山には「生産物・物質供給」「国土保全・災害防止」「地球環境・生活環境保全」「生態系・生物資源保存」「景観保全や文化的機能」「燃料供給」「地域コミュニティづくり」といった機能があるということもできます(p.208)。
また、里山は資源の再利用の源でもあります。
「里山が利用されていた頃は、木材や枝、落ち葉、山菜、草などの里山の資源が、いろいろな用途に使われていた。しかも一回使ったらおしまいではなく、例えば家の材料は古くなれば薪として燃やされ、その灰は田んぼや畑に入れられ、肥料として使われていた。草は牛や馬に食わせて、その糞尿は堆肥として田んぼや畑に使われた。里山から得られるすべてのものは、食料や燃料などに利用された後、最終的には田畑の生産力を維持するための肥料として使われていた」(p.175)。
けれども、このような里山とその働きは現在までにほとんど失われてきました。なぜでしょうか。
「里山問題が私たちの都市生活の発展の裏側で生じており、都市問題の解決と里山問題の解決は深く結びついている」(p.14)。
これを掘り下げて、村澤さんはこのように述べています。「デカルト的な自然観、つまり自然(物質)と人間(精神)を区別し、自然(物質)は人間(精神)によって支配されるべきだという視点・・・このような出発点から始まる近代科学と近代社会は、肝心なことを忘却している。それは、生物がたんなる物質や機械に還元されるものではなく、生命体独自の活動をしているという点であり、また人間社会は自然と区別されるものではなく、それ自体も自然の一部をなしているという点である」(p.15)。
けれども、里山は自然と人間、物質と精神の共存の場であったと村澤さんは述べています。「里山に広がるのは原始の自然でもなければ、人間社会と対立する自然でも、人間によって支配されるべき自然でもない。それは人間社会と共存共栄してきた自然の光景である」(p.16)。
里山そのものを以前の姿に復活させることは難しくても、地球環境、そして、経済格差・貧困への対応、精神文化などの面で、ここから真剣に学ぶべきでしょう。
柄谷行人さんの言葉を借りれば、「贈与と返礼」という、不平等社会以前の交換様式に里山は通じるものがあり、里山を再考し里山復興に関わることで、「贈与と返礼」が「高次元に回復」した社会が期待できるのかもしれないと思いました。