718 「聖霊の働きをふり返り、聖霊とともに歩む」 ・・・ 「しばし立ち止まり、ふり返る: 人生の旅路と霊性」(太田和功一、あめんどう、2022)

 この本の題の最後に「霊性」という言葉が出てきます。これはどういう意味でしょうか。

 

 「私にとっての霊性は、イエス・キリストを救い主・主として信ずる者がその信仰に生きる生き方に現れるものであり、それは、聖霊によって生きること、聖霊に歩調を合わせて生きる生き方を目指すものです」(p.5)。

 

 「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラテヤ5:16)。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラテヤ5:25)。

 

 では、本の題の最初にある「しばし立ち止まる」とはどういう意味でしょうか。

 

 「いったん立ちどまって、いままで歩んできた道をふり返る」(p.15)。

 

 これは、けっきょくは、神さま、イエスさまが、エマオへ向かう旅人にそうなさったように、「私の途(みち)に近づいて、ともに歩んでくださっていた」(p.14)にもう一度気づき直すことです。ただ、それは、家族や友や師との出来事を通してのことであることがよくあります。

 

 私たちは一度立ち止まって、ふり返ってみると、まわりの人びとがしてくれたことを通して、あるいは、自分の身の上に起こったことを通して、神さま、イエスさまがともに歩んでくださっていたことを確認することが大切です。そして、ふり返って、そうであったことがわかると、顔を前に向けるときも、これからもそうであると信じることができ、感謝と希望があたえられるのです。

 

 私たちは「日々の生活で起きているさまざまな出来事や経験の霊的な意味」(p.16)を考えることも大切です。「霊的な意味」とは、言い換えれば、日常生活のなかでも「主が共に歩んでくださる」(p.16)ということです。

 

 わたしたちは「多くの人々から、多くのものを受けてきた」のですが、それをふり返ると、「そのすべての背後に、慈愛に満ちた父なる神がおられる」ことに気づかされ、その気づきを重ねると、「摂理の神の御手を、だんだんと自分の人生の中にも見出せるようになる」(p.19)のです。

 

 まさに「主が良くしてくださったことを何ひとつ忘れてはならない」(詩編103:2)です。

 

 これ以外にも、この本は、信仰生活の導きになることが、いくつも記されています。

 

 たとえば、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)からは、「それまでは、私は、何ができるか、何を成し遂げたかに自分の価値を置いていたけれども、これからは、私の名が天に記されていることを、最大の喜びにして生きたいと思いました」(p.43)とあります。

 

 あるいは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)からは、「イエス・キリストによる救いについての理解も、裁きからの救い、滅びからの救いから、神の子とされることへの救い、父なる神との交わりへの救いの強調へと変えられてきました」(p.80)とあります。

 

 つまり、救いの思いが、たんに「神さまはわたしを裁かないでくださる、滅ぼさないでくださる」というものから、「神さまはわたしをご自分の子としてくださる、神さまは親としてわたしと交わってくださる」という深いものに変えられたということでしょう。

 

 あるいは、エマオの物語にはもう一度触れられていて、「エマオに向かって歩いていた二人の弟子たちは、目的地だけでなく、旅の途上でも意味深い経験をしています」と著者は言い、そこから、私たちが「問題に直面するとき、解決にだけではなく、解決を待ち望む期間にも、何らかの意味があると信じ、期待する」(p.70)と解説しています。

 

 たしかに、エマオに到着する前から、イエスさまは二人の道中に付き添っておられたのでした。

 

 この本の第3部は「心の生活習慣病への気づき」と題され、ときどき人間関係に葛藤が生じる教会生活にも有意義なことが書かれています。

 

 「心の生活習慣病」の一つは、誰かの言葉を聞いてすなおに受け入れられず「でも」と言ってしまう習慣です。「今日はいい天気ですね」「でも予報では午後から崩れるようですよ」(p.141)。

 

 上の例のような日常会話でも蓄積すれば厚い壁になってしまうかもしれません。熟慮し合う話し合いの中で、誰かの提案に対し、それとは異なる意見を述べることはひじょうに大切ですが、「こうしたらよいと思います」と言われればとにかく「でもそんなことは無理です」と言い返す、条件反射的な「でも」は減らしたいですね。

 

 あるいは、人の話を横取りする習慣もあります。「『じつは私にもあなたと同じようなことがあってね』と話をさえぎり、長々と自分の経験を話し始め、いつの間にかその人の話の聞き役に回された経験」(p.150)は多くの方がお持ちなのではないでしょうか。自分はそうしないようにつねに心がけたいですね。

 

 それから、「みんな」「いつも」「すべて」「全部」を使う習慣です。「そんなことはみんなやっている」「あなたはいつもそうだ」「すべてがだめになってしまった」「全部最初からやりなおしだ」

 

 「このような誇大・拡大したり、一般化する言葉は、意味のある対話を生み出しません。人や物事を切り捨てる言葉です」(p.156)。

 

 「 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです・・・ ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」(コリント一12:7-11)。

 

 「聖霊は私たちを、父なる神に、み子イエスに、そしてお互いに結び付けてくださるお方です」(p.76)。

 聖霊は、わたしたちを神さまとイエスさまに結び付けてくださいますが、同時に、わたしたち同士をも結び付けてくださいます。そこでは、上のような「心の生活習慣病」も乗り越えられていくことでしょう。

 教会には、掃除、受付、炊事、教会学校、礼拝司会、奏楽、祈祷などさまざまな働きをする人びとがいます。また、そこに座っておられること、あるいは、教会につらなっておられることそのものが恵みである人びともいます。それぞれが神さまに与えられた賜物であり働きです。それぞれがつながりあって、教会を築いています。そのつながりには、「でも」も「話の横取り」も「誇大・拡大による切り捨て」もありません。

 

 聖霊は、ひとりひとりをひとりひとりのままに、それでいて、ひとつにしてくださいます。この聖霊のお働きに、わたしたちは歩調を合わせることができるように祈ります。

 

 ふり返れば、わたしたちは聖霊に導かれて歩んできたことに気づかされます。ならば、これまでだけでなく、これからも、そして、個人生活だけでなく、共同体生活も、聖霊に導かれたいと祈ります。

 

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