719 「柄谷行人によるキリスト教新解釈」 ・・・ 「力と交換様式」(柄谷行人、2022年、岩波書店)

 人や組織は互いにモノを交換する。しかし、そこには、平等な交換もあれば、不平等な交換もある。

 

 著者は四つの交換様式を挙げる。「A 互酬(贈与と返礼) B 服従と保護(略奪と再分配) C 商品交換(貨幣と商品) D Aの高次元での回復」(p.1-2)。

 

 ぼくがこれを単純化してしまうと、Aの互酬は平等な交換である。おたがいに必要に応じて与えあい、受け取りあうのである。これは、国家や市場経済以前の小集団内の関係である。Bは国家と住民の関係である。住民が国家に服従すれば、国家は住民を保護する。国家は略奪したものの一部を住民に再分配する。国家の方が住民より強い。Cは資本主義経済における関係である。100円で作った商品を1000円でしか売らないのであれば商品の方が貨幣より強い、ということになるのだろうか。資本家の方が労働者、被雇用者、消費者より強いという不平等な関係である。

 

 げんに、今世界の住民は、国家の圧政や軍事によって生命を押しつぶされ、資本主義の企業によって労働者や消費者は苦しんでいる。その克服がD(Aの高次元での回復)に期待される。

 

 では、Dは具体的にはどのようなものなのだろうか。本書では、Dのイメージを持つものがいろいろと挙げられているが、そのいくつかは、キリスト教に関わるものである。

 

 「イスラエル預言者たちは、国家すなわち交換様式Bの支配下で失われた原遊動性を、回復しようとしたのだ。そのときDが出現した、といってよい。しかし、彼らはそのことを“意識”しておこなったのではない。むしろ、Dは彼らの意志に反してあらわれた。Dは自己から発するのではなく、強迫的に到来するがゆえに、見通すことも理解することもできない。旧約聖書では、預言者たちがしばしば、自分がしていることの意義がまったく分からず、苦しんだり途方にくれたり逃げだそうとしたりする姿が描かれている。モーセも当初は、使命を拒もうとした。預言者とはまさに、そのような人たちである」(p.174)。

 

 ここで、柄谷は、モーセによるエジプト脱出はDのひとつである、と言っているのだろう。エジプトはまさに交換様式Bであった。エジプトに服従すれば肉鍋の保護はあったのだ。

 

 「イエスは、このような「王」を斥けた。というより、「国家」を斥けた。交換様式でいえば、それはBを斥けることである。たとえば、彼がいたころ、イスラエルでは、ローマからの独立を図る熱心党(zealot)が強かった。が、イエスは彼らに同調しなかった。ローマによる支配を支持したからではない。同一民族が支配者になろうと、国家は国家だ、と考えていたからだ」(p.176)。

 

 「さらにまた、イエスはCを斥けたといってよい。たとえば、彼は「祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と言って、神殿から商人を追い出した。また彼は、「皇帝に税金を払うことは律法にかなうか」という問いに対して、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさいといった・・・これは王の権威を認めることではなく、むしろ貨幣の権威を認めないことである」(p.177)。

 

 著者によれば、イエスは、家族や共同体を斥けることで、Aも斥けた。

 

 「彼にとって、隣人とは、社会的諸関係を超えて見出されるような他者のことである。いいかえれば、彼が示唆するのは、交換様式A・B・Cを越えて人と交わることだ。それがDの到来であり、「神の国」の到来である」(p.177-178)。

 

 柄谷が挙げるDの例はキリスト教に関わるものにとどまらない。

 

 「墨子のいう「兼愛」は、博愛というよりもむしろ、恵まれない者への愛を説くものだ。これは、交換様式Aの高次元での回復である」(p.182)。

 

 また、「最晩年のマルクスは、ある意味で、共産主義を「太古からあり且つ中断されていた道」の回復として見ていた」(p.387)と著者は言う。(歴史上の共産主義国家ではなく)マルクスが描いていた共産主義も、ある意味、Dである、と著者は考えているのではなかろうか。

 

 「ところがDは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現するようなものではない。それはいわば、“向こうから”来るのだ」(p.395)。

 

 人は自分の計らいや力でDを実現できないのなら、絶望しかないのか。そうではない。

 

 「今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、“Aの高次元での回復”としてのDが必ず到来する」(p.396)。

 

 ここで、著者は、キリスト教の、しかし、他の宗教や思想にもある終末論や逆説(たとえば、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9))に、非常に近い、と感じられた。

 

 柄谷がキリスト教に近づいたというより、彼がキリスト教にも潜んでいる力、国家と資本主義の暴力に抗う力を再発見させてくれていると言うべきだろう。

 

https://www.amazon.co.jp/%E5%8A%9B%E3%81%A8%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%A7%98%E5%BC%8F-%E6%9F%84%E8%B0%B7-%E8%A1%8C%E4%BA%BA/dp/4000615599/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3UWL0FY76N7XS&keywords=%E5%8A%9B%E3%81%A8%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%A7%98%E5%BC%8F&qid=1679372353&sprefix=%E5%8A%9B%E3%81%A8%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%A7%98%E5%BC%8F%2Caps%2C221&sr=8-1