著者によれば、イエスが提示した「福音の中心」とは、「逆説的な「さいわいなるかな」=「インマヌエルの原事実」の宣言と、神の「無条件で徹底的な愛とゆるし」」(p.138)です。
つまり、「インマヌエル」(神が私達と共にいること)と「無条件の愛」(善人だけでなく全ての人を神は愛する)が、イエスの伝えた福音=喜びの知らせだと言うのです。
では、なぜ逆説的かと言うと、ルカによる福音書6章にあるように、イエスは、「「貧しい人々、 今飢えている人々、今泣いている人々」など「幸い」の正反対にある人びとが「幸い」だと言うからです。
なぜ、そのような人びとが幸いなのでしょうか。「「神なしに」とも言わざるを得ないほどに厳しく苛酷な、ある意味で絶望的な様相を呈している、そのような緊張に満ちた現実であったとしても、しかしそこには、それを必ず聞いてくださっている神がそれでもやはりおられるのであり、最も深いところでは、その「独り言(モノローグ)」のような、時に絶望的としか言えないような叫びや祈りをも、ご自身との間の「対話(ダイアローグ)」としてくださる、そのような神がおられるのです」(p.45)。
インマヌエルの神は、そのような形でおられる、人びとの逆境の中におられる、というのです。それが逆説です。
そして、著者は、イエスのみならずパウロもこのインマヌエルの福音に立っていると言います。パウロはローマの信徒への手紙1:20でこう述べています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」。
つまり、神によって創造された時から、世界には、神の、目に見えない姿がある、というのです。これも、まさに、インマヌエル(神さまは私達と共にいる)なのです。
世界では、神への賛美を促されるようなすばらしいこともありますが、自然災害や戦争のような恐ろしいこともあります。ならば、神は全能ではないように思えますが、そのような恐ろしい場面でも、さきほどの逆説のように、神は共にいる、それが神の全能だというのです。
さて、イエスの福音には、もうひとつ、「無条件で徹底的な愛とゆるし」というポイントがありました。
すると、どんなことをしても無条件で赦されるなら、人は駄目になってしまうのではないか、という疑念も起こります。しかし、著者はこう言います。「人をだめにしてしまうかもしれないほどに徹底したゆるしだからこそ、その神のゆるしは人をほんとうに立ち直らせる力を持っているのだ、と言うことができるのではないでしょうか」(p.58)。
さらには、マルコによる福音書3:28-29にある「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というイエスの言葉について、前半は、無条件、徹底の赦しを述べているが、そのような神の働き=聖霊を否定することだけは認められない、と著者は解釈しています。
では、インマヌエル(神が私達と共にいる)ことと「無条件で徹底した愛とゆるし」がどのように関係するのかと言うと、これは、災害、被害だけでなく、自分の罪や冒涜を含む、いかなる逆境にある人とも、神は共にいる、ということではないでしょうか。
どんな時でも共にいる、ということは、最善の場合ではなく最悪の場合をいう時に、成立するのです。