誤読ノート712 「父と子のコンプレックス」
宮沢賢治の父親を主人公にした小説です。賢治の誕生から死までの、父子の距離の伸び縮みが描かれています。それには、いろいろな側面があり、読者の対人関係に重なるものもいくつかあるでしょう。
「賢さんは、きかねぇ」「議論に勝つのは弁の立つ人間ではない。話を聞かない人間なのである」(p.73)。
ぼくは子どもたちと議論をすることはありませんが、子どもたちはこちらの言うことなどろくに聞いていない、と思うことはよくあります。だから、子どもたちの方が最初からぼくに勝っているのではないでしょうか。
「子どものやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る」(p.83)。
子どもたちが大学生になってからは、叱ることがなくなりました。疑問に思うことも、不問に付し、何も言わないようになりました。ぼくの心の燃料はかなり消費されているのでしょうか。
「父親であるというのは、要するに、左右に割れつつある大地にそれぞれ足を突き刺して立つことにほかならないのだ。いずれ股が裂けると知りながら、それでもなお子供への感情の矛盾をありのまま耐える」(p.95)。
ぼくは、子どもにこうしてほしい、ああなってほしいという欲望と、子どものすること、今の姿をそのまま受け容れよう、という自己抑制の両方を持ち合わせていますが、それによって股が裂けるというよりも、後者があきらめに変わっていくように感じています。
「この子はこの家に生まれて幸せだとつくづく思った。自分ほど理解ある父親がどこにあるか。子どもの意を汲み、正しい選択をし、その選択のために金も環境もおしみなく与えてやれる父親がどこにあるか」(p.111)。
ぼくもそれなりに子どもたちを理解しようとしているつもりです。子どもたちの意を汲み、時にはお金も出しているつもりです。
「自分の命の恩人であり、保護者であり、教師であり、金主であり、上司であり、抑圧者であり、好敵手であり、貢献者であり」「尊敬とか、感謝とか、好きとか嫌いとか、忠とか孝とか、愛とか、怒りとか、そんな語ではとても言いあらわすことのできない巨大で複雑な感情の対象」(p.337)。
これは、ぼくの父に対する関係にはあてはまるように思いますが、ぼくの子どもたちは、こんなふうに思うほどに、ぼくと近いところにいるでしょうか。ほとんど無関心なのではないでしょうか。ただし、「抑圧者」「嫌い」「怒り」を感じているようにも思いますが。
「妹の死すら、賢治にはおのが詩作の、(材料に、すぎんか)(p.412)。
これは相当に厳しい批判ですね。父は子どもたちのそういうところを見抜いてしまうのでしょうか。それとも、父は子どもたちをそのように決めつけてしまうのでしょうか。
父と子どもたちの関係は、複合体、コンプレックスである場合が少なくないのでしょう。