重松清さんの本はいくつか読んできましたが、この作品のように初期に属するものは、今回、はじめてでした。心理描写にも文体にも、磨き切れていないものを感じましたが、このざらざらこそが、ぼくたちの生を忠実に写そうとする筆致のようにも思いました。
ある夫婦が離婚します。元夫は別の女性と結ばれ、その女性の子ども二人と、家族になります。性によらない家族です。夫婦だった男女の娘は、元妻に連れられ、こちらも、性によらない父と家族になります。けれども、元夫と今の妻のあいだに性によって子どもができて、いろいろな問題が表面化して、父とは、子とは、家族とは、と苦しみ始めるのです。
表題は、聖書に出てくるイエスの誕生を意識しているのでしょう。イエスの場合、性に
よらない妊娠だと伝えられています。ですから、父ヨセフとイエスは性による家族ではないのです。ヨセフはマリアの不倫を疑い、一度は切り捨てようとしますが、それを乗りこえ、イエスが生まれ、三人は家族となります。この小説ではどうでしょうか。
重松さんはこの作品で、すくなくとももうひとつ、聖書のテーマを用いています。
元夫はある女性からこんなことを聞きます。「キリスト教で言うじゃないですか。汝の隣人を愛せよ、って(・・・中略・・・)隣人って言っても、家が隣だとかじゃないんですよ、いま、とりあえず一番近くにいる人。その人のことを世界で一番好きになっちゃえば、すっごく楽になると思いません? だから、あたし、いまはお客さんが世界で一番好き」(
p.118)。
それからしばらくして再会した時も、彼から「汝の隣人を愛せよって、いまでも信じてる?」と問われ、彼女はこう言います。「隣にいる人を選ぶなんて身勝手ですよ。どんな人でも、っていうか、世の中いろんな人がいるんだから、自分の好きな人とか都合のいい人ばっかりは隣に来ませんよ」(p.236)。
たしかに、そうです。隣にいる人が好きな人、都合の良い人とは限りません。考えてみれば、家族はもっとも近い隣にいる人です。その意味では、イエスの誕生と隣人愛という聖書のふたつのテーマはつながっているのかもしれません。
(かと言って、重松さんは、隣にいる人がどんな人でも愛さなくてはならないと言っているのではありません。暴力夫、暴力父から妻と娘をしっかり逃げさせています。)