宗教の起源、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、イラン宗教、バラモン教、仏教、ヒンドゥー教、中国の諸宗教、日本の諸宗教について、450頁に収められている。
それぞれの章の副題によれば、ユダヤ教の章は「一神教の源流」という観点から、キリスト教は「大迫害から世界宗教へ」、イスラム教は「血塗られたイメージの由来」、イラン宗教は「東西宗教の出会い」、仏教は「その成り立ちの謎」(ブッダは歴史上の人物なのか?)、日本の諸宗教は「混ざり合う神道と仏教」という観点から述べられている。
ぼくがおもしろく思ったくだりを挙げよう。
人間は「立ち上がり、背骨を真っ直ぐにしてすっくと大地の上に立つことによって、中心軸が定まり、周囲の空間は構造化されていく。人体の中心軸は、宇宙の中心にある天と地をつなぐ「宇宙軸」に通じていく」(p.27)。
つまり、動物には宗教はなく人間にはそれがある理由のひとつは直立であり、直立することで、人間は天と地と、あるいは、そのつながりを意識する、というのだ。たしかに、人間が直立しなければ、十字架刑は存在せず、キリスト教もありえない。
「正統と異端の区別はキリスト教会に独特のものと言える。どの宗教でも、教義があって、正しい教義と間違った教義とを区別しようとする。だが、公会議を開いて、正統な教義を組織として決定し、異端については、それを徹底して排斥しようとする宗教は、キリスト教以外には存在しないのである」(p.129)。
組織的に異端を排除するのはキリスト教だけなのかどうかはぼくにはわからないが、キリスト教がそうしてきたのはその通りであろう。ところで、ぼくたちは、今、異端とカルトを混同すべきではない。カルトは多額な献金を強要し、信徒を束縛する。犯罪的なのである。正統とされるものとは異なる教義を信じても、そのようなことがなければ、異端と呼ばれても、カルトとは言えないだろう。かと言って、異端呼ばわりすることには、差別や排除が伴うことは看過できない。
ちなみに、ぼくが知っている範囲では、日本のプロテスタント教会の信者の一年間の献金額は自由意志に基づいて0円から数十万円くらいである。これは、カルトが信者に百万、千万、億の単位の金を要求することとはまったく異なる。
「生がいかなるものかも分かっていないのに、経験もしていない死がどういうものか、それが分かるはずもないというのが孔子の立場であった」(p.378)。
哲学用語を用いないで哲学を語る池田晶子さんが、この孔子と同じことを繰り返し述べている。だから、死を恐れることは無意味だと。
「中国仏教は、インド仏教に見られる現世否定の側面をそぎ落とし、むしろ現世に生きることに価値を見出す教えを築き上げていった。あるいは、死後の生まれ変わりについても、それを苦としてとらえるのではなく、浄土に生まれ変わることを目指す来世信仰へと変容させていったのだ」(p.389)。
そうなのだ。宗教は置かれた文脈(場所、時代など)によって変化していくのだ。ときおり、その宗教の最初の姿にもどろうという運動も起こるが、それも、現在からの変化を目指しているのである。
巻末で著書がこのようなことを言っている。すなわち、宗教はもともと「いつまで生きられるか分からないから、とりあえず死ぬまで生きようという死生観」(p.449)のもとで生まれたが、現代社会の死生観は「高齢まで生きることを前提」(同)としていると。ならば、この前提に立つ「宗教はあり得るのか。それを見出してくことこそが、いま宗教が直面している最大の課題」(p.451)であると。
たしかに、たとえば、ぼくの属する教会に来ている人たちも70代以上がほとんどだ。(イエス・キリストのまわりにいた人びとの大半は30代以下だったのではなかろうか。)21世紀のキリスト教会では「老い」がテーマや話題になる。大切なことだ。
けれども、高齢になる前に人生の大きな危機を迎えたことのある人、あるいは、家族が夭逝したという人も珍しくない。「いつまで生きられるか分からない」という不安は、今の時代でも、潜んではいても、たしかに存在しているのではなかろうか。
今の宗教の課題は、高齢まで生きる人も多いが、そうでない人も少なくない、むしろ、死を忘れずに生きていくべきだ、というところにあるのではなかろうか。