小友さんは神学教授でキリスト教の牧師ですが、枠に囚われない考えをしています。
「信仰がなくたって、いまをこのように生かされていることは恵みなんだと気がつくんです」(p.29)。
本書の題材である「コヘレトの言葉」は、人間は神のように未来を知り得ない、と言いますが、同じく旧約聖書に収められているダニエル書は、やがて起こることを人は知ることができる、と言います。
護教的なキリスト教徒はこの矛盾を説明しようとしますが、小友さんはこう言います。
「たいせつなことは、このように相反する書が一つの旧約聖書のなかにあるということです・・・「両方入っている」という緊張関係で考えることが、聖書を読むうえで最も大事なことだと私は思います」(p.173)。
若松さんもカトリックのキリスト教徒ですが、神そのものを、キリスト教の範囲だけで語ろうとはしていません。
「神という言葉がもしも、問題を難しくするなら、内なる「いのち」といってもよいかもしれません」(p.40)。
「自分の気づかない誰かに生かされている」(p.78)。
「神」とは、「内なる「いのち」」、「自分の気づかない誰か」の異名なのです。
小友さんは「コヘレトの言葉」には「人生は虚しいからこそ生きる意味がある」「人生は短い、だから生きようとする」「明日はどうなるかわからない、だからこそ、今日を生きる意味があるんだ」(p.30)というメッセージを汲み取ります。
ここに「生きる」と三度繰り返されていますが、それを可能にするのが、「内なる「いのち」」であり「自分の気づかない誰か」であり「神」なのです。
わたしたちは、人生は虚しい、残りの時間は短い、もう何もできることなどない、と考えます。自分が何かしても実らない、と無気力になってしまいます。
けれども、若松さんはこう言います。「私たちは自らが蒔いた種の未来を知り得ないことが多い。そうであれば、最初から諦めるのではなく、もっと種を蒔くことを試みてもよいと思うのです」(p.169)。
たしかに、わたしたちは、ひまわりや朝顔の種を蒔くことはできるのではないでしょうか。チューリップの球根を植えることができるのではないでしょうか。それらが花を咲かせれば、道行く人や、花自身が喜ぶのではないでしょうか。いや、種や球根自身が土の中で生き返るのではないでしょうか。