600   「それはほんとうに本当なのか」・・・「フーコー入門」(中山元、1996年、ちくま新書)

 人間とは何か。唯一の正解はない。いくつもの答えがある。そして、それは、解答者の属する歴史にもよるだろう。けれども、「真理という概念は、この歴史性を隠蔽して、なにものかの『本質』であるかのように振る舞うものである」。しかし、「『真理』とは論駁されないという特徴をもつ誤謬にすぎず、歴史的な価値をもつものにすぎない」(p.128)。

 

 「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺それぞれの二乗の和に等しい」という命題は(おそらく)どの時代のどの場所でも正しいであろうが、「子どもには洗礼を受けさせてはならない」という一部のキリスト教会の考え方はそうではない。

 

 では、そのようなものに過ぎない「真理」が人びとに刻み込まれてされていくのだろうか。「そのための一つの手段が試験であり、これは近代の特権的な〈真理の保証〉である。試験を受ける個人は、試験によって資格を付与され、等級を定められ、資格の否定という強制手段によって、処罰される」(p.143)。

 

 「試験と評価に合格したものは、〈真理〉に近づくと自ら感じるようになるのであり、他の人々に対して自分の〈真理〉への近さを誇り、他者に対する力の威力を味わう」(p.144)。

 直角三角形の辺の件はどんなときでも正しい。歴史性を帯びた相対的なものではない。しかし、たとえば、現在の日本の学校は、人間の生全体のすべてを扱っているわけでもなく、したがって、試験も人間や世界の限定された領域からの出題に留まる。そして、その領域で速く計算ができる者が優秀と見なされる。

 

学校の勉強という限定領域において高得点を挙げた者たちは、自分たちは〈真理〉に近いと錯覚する。官僚などが好例だろう。学校で学ぶ領域もどんな時代でも場所でも妥当なものというよりは、恣意的なものであろう。

 「フーコーは、哲学のつとめは、真理が自明なものでも普遍的なものでもなく、歴史的に作られたものであることを暴露することによって、その真理の絶対性を崩壊させることにあると考えていた。絶対的な真理が存在するのではなく、個々の真理は自由な主体の行為としてしかあり得ない」(p.231)。

 

 数学や物理や化学などの分野ではどんな場合でもあてはまる命題はありうるだろうが、性、病気、善悪、人権、宗教の教義などにおいては、フーコーのこの提起は重要であろう。

 すべてのものを疑うことは難しいが、疑う範囲を拡大すべきだろう。とくに、文献解釈、歴史の記述、倫理、政治などの領域においては、疑念のアンテナをつねに立てておくべきだろう。

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