620   「笑いと宗教の共通点」・・・「癒しとしての笑い」(ピーター・バーガー、新曜社、1999年)

 著者は、神学にも詳しい社会学者です。笑いは社会学の重要なテーマのひとつだと思われますが、バーガーの著述そのもののいたるところにも、ユーモアが散りばめられています。

 

 「自分たちの理論をひどく重大なものと考える性癖では、哲学者は神学者につぐものである」(p.70)。

 

 これを読んで、ぼくは自分を振り返り、そうだ、そうだと思ってしまったのですが、ぼくが自分を神学者に重ねてしまったことも、笑えてしまいます。バーガーも、健全に自分を笑っているのかもしれません。

 

 「滑稽さと宗教や呪術との類縁性」(p.120)。

 

 たしかに、笑いと宗教には共通点があるかもしれません。本書の原題も、Redeeming Laughterであり、redeemには「神が人を救う」という意味があります。

 

 キリスト教の場合、聖書そのものには、笑いはあまり見出せません。預言者やイエスが愚者的行為をすることくらいしか、本書は挙げていません。旧約聖書やイエスよりのちの時代でも、たとえば、修道院では笑いは禁じられていたようです。

 

 ところが、ルターになると、人前で話すときにあがってしまう若い司祭に「みなそこに裸で座っていると思ってみたらどうか」などと言ったようです。何事にも慎重なメランヒトンにも「勢いよく罪を犯せ」と言ったとか。バーガーはルター派の信徒なので、これはまったくでたらめな話ではなさそうです。

 

 カール・バルトは「よき神学というものはいつでも楽しくユーモア感覚をもってなされなければならないと言った」(p.346)そうですが、日本でバルトを学ぶ者の中には、その反対の人もいるとかいないとか。ボンヘッファーは「ユーモアがいかに逆境でキリスト教信仰の支えになるものかを、獄中で書いた」(p.346)そうです。さらに、ティーリケは、「ユーモアのうちにすまい、ユーモアによって生命を与えられるメッセージとは、世界克服のケリュグマである」と。

 

 それならば、神学者たちが「自分たちの理論をひどく重大なものと考える性癖」も捨てたものではないのでしょう。

 

 バーガーは「滑稽なものはふつうの日常的な実存を超越する」と言います(p.351)。「たとえ一時のことにせよ」「低いキーの超越」という限定はつけられていますが。 これと比べて、宗教は「高いキーの超越」(p.352)と呼ばれます。

 

 「超越」とは、厳しい現実を乗り越える、ということであり、笑いにも宗教にも、現実に埋没しないでそれを乗り越えるための、現実よりも高い視点がある、ということではないでしょうか。

 福音というキリスト教用語があります。これは、英語では、Good Newsで、「神からの良い知らせ」「神からの喜びの知らせ」というような意味の言葉です。日本語でも「笑う門には福来る」という言葉があります。

 

 笑いも、宗教も、厳しい人生をたどる人びとを、嘆きばかりに浸らせず、「喜び」をもたらすことに意味があるのではないでしょうか。

 

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