657   「自分の愛するものを見つければ、生きる喜びが湧く」 ・・・ 「世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義」(山本芳久、新潮社、2021年)

 好きな人がいたり、好きな本を読んでいたり、好きな連続ドラマを観ていたりすると、私たちは、生きているのが楽しくなり、生きていよう、という思いになります。この本が伝えてくれることは、これに似ているのではないでしょうか。

 

 世界には愛すべきものがたくさんある。それらは何らかの意味で、善である。善を愛することが、人生の喜びである。この本は、こういうことを教えてくれようとしているように思いました。

 

 この本は、哲学者とその研究室をたびたび訪れる学生との対話形式で、トマス・アクィナスの魅力のひとつを伝えてくれる一冊です。著者と東大新入生の対話と想定しても的はずれではないでしょう。

 

 「人間がどれだけ悪しき在り方に陥ってしまったとしても、その悪しき在り方の根底には、何らかの善に対する愛がある。たとえ歪んだ仕方になっているにしても、何らかの善に対する愛から、その行為や発言が行われている。そのような枠組みで自分や他者のことを見直すと、いろいろなことをより積極的な観点から捉え直すことができるようになると思います。その「善に対する愛」を軸にしながら、歪んだ在り方を修正し、全体としてより善い在り方を構築し直していけばいい。人間にはそのような心の自己回復力が与えられている――そう考えるのが「肯定の哲学」なのです」(p.188)。

 

 たとえば、「子どもを何が何でも有名大学に入学させたい」というのは子どもを自分の満足の手段とする「歪んだ」欲望ですが、その根底には「子どもに幸せになってほしい。自分も幸せな心になりたい」という気持ちがある、つまり、幸せという善に対する愛がある、と考えることができます。そうすると、子どもに有名大学入試突破を強いることを修正し、子どもも親も幸せになる在り方を構築し直す、という「心の自己回復」の道も考えられるのではないでしょうか。

 

 「歪んだ仕方」の根底にも善に対する愛があるばかりでなく、この世界には、歪んでいない仕方での愛もあります。なぜならば、「「愛」とは、いわば、この世界と私をつなぐ「絆」のようなものなのです。この世界のなかに、私の心と響き合う何かがある、いいなと思える誰かがいる。たとえ手に入れることはできなくても、今はまだ手に入らなくても、素敵だなと思える人やものと出会えていること自体が、一つの達成なのです」(p.208)。

 

 自分の心と響き合う音楽を愛する。誠実にまっすぐに一所懸命に生きる人を愛する。そして、その音楽も、その人も、世界の一部であり、それを愛することが、私たちと世界との「絆」なのです。

 

 「神がそもそも世界を創造したのは、自らの善性――充実した在り方――を、被造物へと伝達し、その善性を被造物によって表現するためであった・・・一つや二つの被造物を創造したくらいでは、神の善性を十分に表現しきれないわけですね。多数の多様な被造物を作り出し、そのすべての被造物が総体として織りなす世界ができることによって、はじめて神の善性の伝達が、意味のある形で可能になったのだとトマスは述べているのです」(p.254)。

 

 この言葉は、創世記1:31の「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という言葉と、そして、本書のタイトルとも、つながっているのでしょう。

 

 「この世界は、私の心を共感で揺すぶる実に豊かな事物で充ち満ちているのではないか・・・ひとつの「善」との出会いは、それだけに留まるものではなく、さらなる「欲求されうるもの」の存在を予感させ、それがより多くの「善」へと自らを開いていくきっかけとなる」(p.286)。

 

 これは、「主よ人の望みの喜びよ」を聴いたのをきっかけにバッハ全曲を愛するようになることや、ある思想家の一冊から全冊へ、さらには、その思想家が愛する思想家へと、わたしたちの愛が広がることで、人生が充実することにも現れていると思います。

 

 「愛することのできる新たな対象に出会うことは、自分の心が、その対象によって活性化させられる、新たな生命をあたえられる」(p.289)。

 

 そのような出会いはない、という人もいるでしょう。けれども、本書はこう言います。

 

 「「自己肯定感」を抱きたいのであれば、「自己」にこだわるのではなく、むしろ、この世界に充ち満ちている様々な事物や人物の「欲求可能性」に気づくことが近道だということですね」(p.299)。

 

 「欲求可能性」とは、今はまだ好きになっていないもの、愛していないものであっても、そうなる可能性のあるものが、世界にはたくさんあるということです。たとえば、若いころは、花などに興味がなくても、年を重ねると愛おしくなるように。偶然出会うだけでなく、そうしたものがそこにあることに気づくことが大切なのではないでしょうか。

 

 この引用は、もうひとつ、重要なことを言っています。自分を肯定したいのなら、自分を無理に認めようとしたり、自分の善いところを捜したりするのでなく、自分からいったん離れて、自分のまわりの世界にある善さに気づくことだと。自分のまわりを肯定するようになると、自分自身をも肯定できるようになると。

 

 戦争があり疫病があり、自分の心は重く、世界にある善いものなど見つけることは難しそうに思えますが、そこにも、平和や健康への愛、平安な心への愛という善があるのではないでしょうか。それは飢餓ではなく祈りであることに気づきたいと思います。

 

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