546 「自分が救われていれば、共通善は求めなくてよいのか」・・・「カトリシズムにおける人間」(三雲夏生、1994年、春秋社)

誤読ノート546 「自分が救われていれば、共通善は求めなくてよいのか」

 

「カトリシズムにおける人間」(三雲夏生、1994年、春秋社)

 

 著者は、遠藤周作、ジョルジュ・ネラン神父らを友人に持つカトリック信徒であり、慶応文学部の教員を務めた。

 

 ぼくは、この名前を、同じくカトリックにして慶応文学に関わっている若松英輔さんの著作で知った。

 

 キリスト教にはいくつもの流れがあり、その一つでは、人間は徹底的に堕落していて、自分で自分を救済することができない、しかし、神は人間を救済できる、いや、神だけが人間を救済できる、救済された人間は、それへの感謝として、神を信頼し、他の人間を愛する道を歩もうとする、と考える。

 しかし、著者の考えは少し違う。それによれば、人間は限界を持つ弱い存在である。それを人間の「肉的」な側面と言う。けれども、人間には「霊的」あるいは「精神的」な側面がある。自分の弱さや限界を乗り越えていく側面がある。

 「人間はその受肉性において全体として肉体的であると同時に、その本性的な志向性において全体的に精神的なのである」(p.15)。

 肉体は弱いが精神は強い、というのではない。いわゆる「精神」を含む人間の限界、弱さを「肉」と呼び、それを乗り越えようとする志向性を「霊」「精神」と呼ぶのだ。

 人間の救いは、神の一方的な作業によるものではなく、この志向性との共同作業だ。

 「人間の行為は救済に対して十分な条件ではないが、必要な条件でもあるのである。人間は自己の救済に対して責任をもつ、自由な、神の協力者なのだ」(p.16)。

 

 けれども、ぼくは、「自己の救済」という言葉には、ひっかかる。「救済」は、わたしという人間がここに存在する(神こそが存在そのもの、根源的存在であるが、人間もその根源存在によって、存在として生み出されて、ここに存在している)ことではないか。

 

 人間が神と協力する、あるいは、神が人間に協力してくれる作業とは、救済というよりも、善への飛翔ではなかろうか。人間は根本的に悪であるが、神の協力により、善を志向できるのだ。神はそれを求め、促しているのだ。

 「人類の平和な共同体、未来の世代を視野にいれた共同体への参加に、人間であることの価値を認め、それを人間であることの課題とすることが求められる。三雲先生の『オプティミスティックな宗教的ヒューマニズム』の倫理学は、それを要請している(p.199、樽井正義)。

 

 ぼく自身は、人間は神に一方的に愛され救われ存在を許されていると考えるが、これによって、人間共同体の善への志向、追及を放棄してしまうようであるならば、救いの条件のようにも読め、救いはその人次第とも聞こえる著者の「人間は自己の救済に対して責任をもつ、自由な、神の協力者なのだ」という言葉の含意を再考しなければならないと考える。

 

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E9%96%93&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss