ある人びとの言葉は本になりますが、多くの人びとの言葉は本棚になります。ちょうど、風に転がる紅や黄の落葉の下には、悲しみ色や沈黙色した枯葉の堆積があるように。
ぼくらの言葉は、自分のパソコンの中に貯蓄され、ネット上の倉庫にも押し込まれ、ある言葉は読まれ、拡散し、ある言葉は、ただいくつかのいいねをもらうだけで、読まれることはありません。
なんと無意味なことでしょうか。いや、本当に無意味なのでしょうか。
本書は、悲しみ、と、言葉をつむぐ、ことについての、批評家と詩人の文通です。
言葉をつむぐ、とはどういうことなのでしょうか。
「思ったことを書くのではない、宿ったことを書く」「コトバの宿りにもっとも求められるのは待つことだ」(p.7)
宗教者の言葉もそうあるべきでしょう。自分の思いを書くのではなく、自分に宿ったことを書くのです。それには、宿るのを待たなければなりません。
「生者だけでなく、死者たちにも届く、と思って書くことだ。そして、この文章は、誰かが、この世で読む、最後のものになるかもしれないと思って書くことだ」(p.8)。
宗教者が人びとの前で語ったり、そのために書いたりするときだけでなく、ネットに書き込むときも、この言葉は死者にも届く、誰かにとって最後に読む言葉になる、という気高い精神が求められています。
「悲しさではなく、悲しみを語れ。悲しさの度合いではなく、世にただ一つの悲しみを語れ」「愛を語るな。愛する人を語れ、世にただ一人いて、お前よりもお前の魂に近い人を語れ」(p10-11)。
ブッダの悲しさではなく、ブッダの悲しみを語るのです。大震災で死んだ人、その家族、友だちの悲しさではなく、悲しみを語るのです。イエスの愛ではなく、愛の人イエスを語るのです。
「誰も聞いてくれないからといって、語ることを諦めてはならない。生まれ出ようとする言葉は、他の誰に必要なくても、私たち自身には、どうしても必要だからだ。真摯な言葉であればそれを聞く者は必ずいる。目の前にいなくてもかならず存在する。書くとは、自分と亡き者たち、そして未知なる他者への手紙なのである」(p.12)。
今度の日曜日、たとえ一人も聴きに来てくれなくても、たとえ一人も読んでくれなくても、たとえ、印刷されることがなくても、語らなければならない。書かなければならないのです。自分のために。けれども、それは、自分が自分に語るのではなく、自分を通して語られる声を自分も聴くのです。「詩人とは、生ける言葉の通路」(p.31)なのです。
自分以外にも、聴く人、読む人はかならずいます。言葉は、雲散霧消するのではなく、地面に積み重なり、土になっていくからです。土はかならず何かを芽吹きます。
「でも、その人たちが詩を書いた、という出来事はけっして、打ち消すことはできない」(p.32)。
読者なき書き手、聴者なき語り手の心臓を慰める言葉です。そして、じつは、ほんとうは、ひとりたいせつ読者と、ひとりたいせつ聴者が存在することを教えてくれた言葉です。