自分のためなら、人を傷つける。それではいけないとわかっていてもそうしてしまう。そのような自分でも、神に見捨てられない=神からは赦されることがあるならば、それは、神の恩赦、神が自分に条件を求めず一方的にもたらす恩恵(これをキリスト教では恩寵(おんちょう)と呼ぶ)によるものでしかない。ぼくはそのように考えてきた。
けれども、著者によれば、トマスは、恩寵だけでなく、人間の自由意志が恩寵と「協働することによって、神と人間の深い関わりが構築されていく」(p.149)とする。
ただ神が見捨てないことによってだけでなく、それに応える人間の意志があって、神とのつながりが深まり、人間は神の持つ善を分有するようになるというのだ。
これを「神の救済」と呼ぶとすると、「神の認識」においても同様のことがことがトマスによって示されている。
「トマスは、熱烈な宗教性と冷徹な哲学的認識とが相互浸透する魅力的な世界を読者に開示する」(p.18)。
「理性を超えた神秘との対話のなかで、理性の働きの及ぶ範囲を絶えず拡大し続ける自己超越的な在り方を常に担い続けていくことこそが、真に理性的な態度だと捉えられている」(p.271)。
「熱烈な宗教性」と「理性を超えた神秘との対話」は同義であろう。神の恩寵は人間の自由意志と協働するように、神の神秘は人間の理性と無縁のものではない。けれども、理性の延長上のものでもない。
イエス・キリストの誕生について、ぼくは「神が人間と同じ姿をとってくれた」(キリスト教ではこれを受肉と言う)と信じてきたが、本著にはこうある。「受肉の本質は、『神が自らを被造物に一致させること』にあるのではなく、『被造物を神に一致させる』ことにある。変化するのは神の方ではなく被造物――人間――の方なのだ」(p.232)。
「『神の本質そのものであるカリタス(愛)』を分有する仕方で、人間精神のなかに『カリタス』が形成されていく」(p.209)。
自らのエゴイズム、悪を省みると、意志や理性がうまく働くとは楽観視できないが、神が無条件に救ってくれる、神の方が自分を啓示してくれるという言い訳のもとに、愛や善をわかちもつことや、神を知ろうとする努力を怠ってはならないだろう。