37「王だ! 大祭司だ! いや、預言者だっ!!! ダッダッダッ脱原発♩」

「福音と世界 2011・11」(特集=預言者とは誰か)

 読みごたえのある特集でした。
 
 まず北博さん(東北学院大学教授)。

 エレミヤと言えば、一族からも迫害を受ける孤独な預言者であったと言われますが、北さんは、多数の敵もいたが、「隠れ支持者が相当いた」らしいと述べます。たとえば36章などがその根拠です。

 国家の滅亡という危機的な状況(国家が滅亡しても人びとの生活が成り立てば構わないようにも思いますが・・・)において、エレミヤと行動を共にした者、追随した者、エレミヤについて記す際にその危機状況をエレミヤの言動に埋め込んだ者、感銘をもってそれを読み、そうした言動の記録を集め「エレミヤ書」として編纂した者、こういう人びとの総体が、「広い意味での預言者エレミヤ」と北さんは言うのです(p.34)。

 ぼくたちも3・11以降という状況に対して、ひとりひとりの総体として「広い意味での預言者」にならないといけないし、そうなろうという意志を強くし、そうなるための行動や姿勢をとらなければならないと思いました。

 つぎは石川立さん(同志社大学教授)。

 「民が神に立ち帰って諸支配から救い出される―このことを実現させる神のことばの表出が真の預言者の使命である」(p.38)。

 ぼくなりに言い直してみましょう。預言者の使命とは、国家などの権力(神ならぬ神=偶像)による抑圧から人びとを救い出すために、神に立ち返らせる、そのために、自分のところに帰り来たれという神のことばをはっきりと語ること。

 これが預言者の使命の第一義であり、「処罰の告示や未来の予告はその目的に仕えるための第二義的な任務に過ぎないのである」(同)と石川さんは述べます。

 ぼくは、処罰の告示は、その歴史状況の厳しさやそこに臨む人間に求められる粘り強い姿勢の表現、未来の予告は、解放の幻の一類型と考えれば、なにも「第二義的」と言わなくても良いように思いますが、「悪いことをしたから罰があたった」「まったくこの通りの未来が来る。予言は当たる」式の言説を斥けるためなら「第二義的」と位置づける意味があるとも思います。

 さいごに渡辺英俊さん(日本キリスト教団なか伝道所牧師、移住労働者と連帯する全国ネットワーク共同代表)。

 渡辺さんは、マタイやルカがイエスの誕生物語をダビデと関連付たことによって、「キリストに『王』というこの世的な栄光の衣を着せるキリスト論が、教会の『標準文法』となり、イエス預言者としての生と死は覆い隠される」(p.44)と言います。

 また、イエスの死がユダヤ教の枠組みの中で贖罪の生贄と位置付けられたことで、イエスは「大祭司」と理解され、これもやはり、イエス預言者的生き方と、イエスが十字架で殺されたのはそれゆえであることを消し去ってしまう、と言うのです(同)。

 たしかに、王か、大祭司か、預言者か、と言われれば、歴史上のイエスはたしかに預言者でしょう。

 けれども、ぼくは、イエスの「預言者的な活動と生き方とは、教会の視野から消え去る」(同)とは言い過ぎだと考えます。

 神学の教科書ではキリストの職務として「王的職務」「祭司的職務」「預言者的職務」の三つを挙げていますし、教会も個々のキリスト者も、イエス預言者的活動をまったく見失っているわけではありません。総体としての預言者エレミヤは今日まで脈々と歩んできましたし、日本では3・11以降、その意と志をあらたにしていると思います。

 「王」という表象も捨てたものではありません。聖書はユダヤの王ではなく、神の(王)国の王としてのイエスを描いています。神の国は、ローマ帝国ともユダヤ王国ともまったく異なる王国、それらの国々の権力のあり方を批判する王国、価値感が逆転する王国として描かれています。マタイやルカがイエスダビデと結ぶつけたとしても、それはイエスユダヤ王国の王になると言っているのではありません。イエスの説く神の国はそれらの現状を逆転させた世界なのです。

 「祭司」というシンボルについても、ぼくはこう考えます。祭司という言葉は贖罪と結びつけられますが、贖罪という考えが、わたしたちを解放に向けて促すこともありえるのではないでしょうか。ぼくたちはエゴイズムに陥り、自分が自分がと言い募り、神も隣人も顧みない、的外れの者=罪人ですが、贖罪がぼくたちをその的に戻してくれるのなら、ふたたび、隣人との愛ある関係、権力的でない関係、神の示す正義と平和(義と平安)に目を向ける姿勢を持とうと励まされる可能性があるのではないでしょうか。

 さいごに、預言者的な解放や正義となかなか結び付かない「キリスト=王=大祭司」理解であっても、それが一人一人の人間の実存にとっては非常に重要であることを認める必要があると思います。

 キリスト教とは、歴史的人物としてのイエスの生き方を範とする者ばかりからでなく、そのイエスを王=自分や自分の人生、生きる世界を支えてくれるお方、大祭司=どこまでも自己中心な自分の罪に赦しをもたらしてくださるお方として信仰する者をも含むのであり、それは、権力に迎合した生き方、抑圧からの解放に無関心な生き方などとは、単純には言えないと思います。

 権力批判が不寛容批判を含むのであれば、あるいは、権力批判が「権力批判という権力」批判を含むのであれば、イエスという預言者的な歴史上の人物を王とし、大祭司とし、そのことによって、この世界を生き抜く一人一人をも、聖書やキリスト教のあり方として受け入れることの中にも、預言者的なイエスへの預言者的な追従の道がありうると思います。