みすゞは山口県は仙崎の、そして、雅輔(がすけ)は下関の本屋の子どもでした。下関は仙崎の本店にあたります。雅輔はみすゞの弟でした。けれども、下関の本屋夫婦には子がなく、仙崎のみすゞの父は死に家計は苦しく、雅輔は物心つく前に養子に行ったのです。みすゞの母と下関の本屋の妻は姉妹でした。そして、みすゞと雅輔はいとこ同士ということになっていました。
やがて、下関の本屋の妻が死に、みすゞの母はそこの後妻になります。つまり、雅輔は実母を継母として迎えることになりますが、それを知るのはしばらくあとのことです。
幼いころ雅輔は仙崎のいとこ宅をよく訪ねます。十代後半になると、みすゞが下関に出てきて、本屋を手伝います。本や雑誌には恵まれたふたりは、詩や文学について、何時間も語り合ったものでした。
下関商業を卒業した雅輔は、大阪や京都を訪れたり、東京に住んだりする機会を得ます。けれども、みすゞは仙崎と下関しか知りませんでした。
「『小さな葉書よ、私の詩の魂を乗せる天使の翼となって、東京へ翔びたて。活字となって全国の読者の胸に届け』 テルは念じて投函した」(p.134)。
みすゞはテルの筆名です。生前は、単行本は出ませんでしたが、みすゞの「詩の魂」は、雑誌に載って、全国の読者の胸に届きました。そればかりではありません。みすゞの詩は、読者の心をも遠くへと翔ばしたのです。
「二冊のノートには、読む者をここではないどこかへ連れて行く金子みすゞ独特の世界が息づいていた」(p.262)。
では、みすゞの「詩の魂」とはどのようなものだったのでしょうか。
「童謡は、大人が子どものために詩を書いて、曲をつける芸術作品やね。子どもの夢や楽しい気持ち、悲しみや寂しさを、唱歌ともわらべ唄ともちがって、文学、芸術として表現するんやね」(p.92)。
これは、小説のなかでのみすゞの言葉です。本書の著者である松本さんの童謡観、みすゞ観でもありましょう。「子どもの夢や楽しい気持ち、悲しみや寂しさ」とありますが、それらは別々のものではなく、むしろ、重なりあっているのではないでしょうか。
「童謡はたやすく書けそうに思えるが、子ども騙しの甘いだけのものには力がない。すぐれた作品には、それを支える技巧と、さらに読み手の感性をゆさぶる謎としか言いようのない力がある」(p.124)。
「表現の巧みさだけでなく、詩の行間に、人が生きていることのたしかな実感があり、かつ八十の詩のような幻想が広がり、読み手の心に染みいる共感もほしい。そこに自分の魂も込めなければならない。けれど、優れた作品は、書き手の魂など遥かに超えて、詩そのものの魂を内にそなえている」(p.132)。
「みすゞの詩の魂」は「書き手の魂」というよりも「詩そのものの魂」でありましょう。それは「謎としか言いようのない」と著者は言いながらも、さらに掘り下げていきます。
「『たぶん、詩を書いているのは私じゃない。お星さまや、たんぽぽ、小さな蜂、金木犀の匂いとか、そういうもんのたましいが私の中の子どもに呼びかけて、書かせてるんよ』 テルは謎めいたことを言った」(p.209)。
この謎に著者はさらに接近します。
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼に見えぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
みすゞのこの詩をうけて、著者は言います。「みすゞは、人や田園や花鳥風月を遥かに超えて、もっと深遠なものを詠っている。草を生やす大地の力、人や生きものを生かしている自然と宇宙、そのすべてを成りたたせている目に見えない偉大なものを描いているのだ」(p.261)。
明るい方へ
明るい方へ。
一つの葉でも
陽の洩るとこへ。
「たとえ一枚の小さな葉でさえも、激しい雨に打たれた後は、また日の光を求めて伸びゆく逞しい生命の力を備えている」(p.506)。
みすゞの詩には、激しい雨があり、生命(いのち)の力がありました。みすゞは、大阪や東京には行かなかったけれども、明るい方へ、明るい方へと、上ったのです。詩の魂の故郷へと昇ったのです。