誤読ノート634 「母殺父殺を待ち受けるもの」
「別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー: 五大長編を解読する (教養・文化シリーズ 別冊NHK100分de名著)」(亀山郁夫、2021年、NHK出版)
「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など、ドストエフスキーの五大長編を亀山郁夫さんがドラマチックに読み説いています。読んでいてわくわくします。
亀山訳や亀山解釈には問題があるとも言われていますが、それはそれとして、この本はこの本として、読み応えがありました。
「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは、良く知られているように、「歴史上の英雄や天才のような少数の『非凡人』は、多数の『凡人』とは異なり、人類にとって有益な目的のためならば、ある一線を『踏み越える』、すなわち罪を犯す権利をもつ」(p.5)という「空想」を抱いています。
今、ロシアはウクライナに戦争を仕掛けていますが、亀山さんは、いみじくも、「戦争という場での殺人は、正義として歴史的に評価され、認定される可能性があるということです。ナポレオン・ボナパルトがその典型でした。人間を殺すという、倫理的に決して許されるはずのない『悪』が、歴史的な事実として『正義』に反転する例が往々にしてあるのです」(p.47)と指摘しています。
さて、ラスコーリニコフは彼自身も「非凡人」であるとして、金貸しの老女を殺害します。これは何を意味しているのでしょうか。
「『母』を殺すということは、母なるものとしての『大地』、女性たちの身体としての『大地』を血で汚すことを意味しています。『ひざまずいて、あなたが汚した大地にキスを』しなさい、と言うソーニャは、女性たちに謝りなさい、母なるものに謝りなさい、『母なる大地』と和解しなさい、と言っているのです。大地との和解とは、生命を生み出す唯一の力であり、同時に生命そのものである母なるものとの和解を意味しています」(p.83)。
女性、母、大地という亀山さんの性急な結び付けは、批判されるべき問題を含んでいるように思いますが、しかし、ラスコーリニコフの殺人と大地へのキスの関係の指摘は深いと感じました。
他方、「カラマーゾフの兄弟」は父殺しを語っていると亀山さんは論じます。そして、父殺しは、誰もが抱えていると。
兄弟の父親を殺したのは、スメルジャコフという、異母兄弟の可能性のある人物ですが、亀山さんによれば、イワンはこう考えます。「父親フョードルの死の根本原因は自分にあるのかもしれない、自分がスメルジャコフを唆した、その意味で自分は彼と共犯かもしれない」(p.285)。
「アリョーシャが言おうとしていたのは、イワン、あなたは実行犯ではない、しかし罪を免れえない、ということです」(p.286)。
エディプス神話に従うならば、男は、父親を殺そうとする、実際に手をくださなくても、何らかの意味で父親を殺している、ということになります。
では、父親殺しの場合は、どのようにして、父親との和解が生じるのでしょうか。母親殺しの場合は、大地とのキスでした。父親を殺した者の和解では、天との抱擁が待っているのでしょうか。
それはわかりません。なぜなら、亀山さんによれば、「カラマーゾフの兄弟」は本来二部作構想の一部であり、二部を書かないまま、ドストエフスキーはこの世を去ったと推測されるからです。
母を殺し、父を殺すわたしたちの救いは、大地とのキスと、もうひとつ、何が求められているのでしょうか。