精魂尽き果てたときは、若松英輔さんの本を読みたくなります。それも、ひとりの人の一冊の評伝よりも、小文集、エッセイ集が良いと思います。心がつぶれそうなとき、若松さんの新刊が出ると、闇夜でマッチ箱を拾ったような気持ちになります。
「喉に渇きを感じれば水を探す。それに似て、魂に渇きを感じるとき人は、言葉を求める」(p.23)。若松さんの読者はまさにこの人たちであり、若松さんの本はまさにこの言葉です。しかし、それは、若松さん自身が、このように言葉を求めてきたからでしょう。
「人は誰かの前で呻くことはできない。人前で行い得るのは嘆きであって、呻きではないからである。呻く時、人はいつも独りである。ある人は、神の前に独りだというかもしれない。
そして、ひとりでいるときに発せられる、声にならない声を、神は決して聞き逃さない」(p.25-26)。
これは、若松さんひとりのことではなく、読む人は、みな、この言葉にうなずくことでしょう。
「『哀しい』という文字はうちに『哀れ』を含む。「あわれ」とは同情を示す表現ではない。『ああ、われ(それは私だ)』という他者の人生に『われ』を見ずにはいられない感嘆を秘めた言葉なのである」(p.49)。
この本の読者は、若松さんの一頁一頁に「ああ、われのことだ」と心を潤すことでしょう。
旧約聖書の出エジプト記で神はこう言います。「わたしは、エジプトにいる私の民の苦しみを確かに見、酷使する者の故の彼らの叫びを聞いた」
新約聖書の使徒言行録では、この出エジプト記が、このように引用されています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見た。また、その呻き声も聞いた」
そして、若松さんはこう言います。「『出エジプト記』では『叫び』だった言葉が、『使徒言行録』では『呻き』になっている」「声を上げなければ、誰も耳を傾けてくれない。それがこの世の常であることは理解できる。だが、それは神の前でもそうなのか。神は、声を上げる力さえ失われた人にこそ、寄り添うのではないか。むしろ、神は、呻きの声こそ最初に聞き届ける」(p.128)。
呻きは沈黙です。この沈黙には、神に聞き届けられるというちからがあるのです。