592  「生存者の罪悪感と死者の自由、その距離」・・・・・「貝に続く場所にて」 (石沢麻依、講談社、2021年)

 わたしは3月11日の被害者ではない。友人に被災者はいるが、死者はいない。わたしは、ただ、というか、不遜にも、5月に仙台を訪問し、停電や水不足、初期の支援奔走を経験した友人の車で、あの道路の向こう側にまで案内していただいたものに過ぎない。

 

 「仙台東部道路を挟んだ土地の写真を見た時、私の目の中にこの二面の顔が重ね合わせられた。海にのみ込まれた場所と、津波が届くことのなかった場所、この二つは時間が経っても完全に戻ることはない」(p.117)。

 

 しかし、津波が届かなかった場所にも、爪痕はある。「白く傷を帯びていないように見える半面についても、想いは向けられる。もう半分もまた傷跡を抱えているのだ。建物の倒壊、土砂崩れ、道路の亀裂や土地の液状化」(同)。「洗えなくなった皮膚の上につもる澱みとべたつく重さ。針のように突き刺さる寒さ」(p.60)。

 それにもかかわらず、彼女は「海に対しても原発に対しても原発に対しても、間接的な視点や距離感しか持っていない・・・私の視点は、常に額縁の外に置かれている。額縁の外から、画面の中にある削られた場所と常態を取り戻す海を眺めているにすぎない」(p88)と言う。

 

 わたしは、額縁の外のさらに外にいる。絵を見てさえいない。しかし、せめて、言葉になった3月11日からは距離を置いてはならないという囁きに導かれ、この小説も読んでみた。

 

 3月11日の死者がいる。死者の近くにいた人びとがいる。死者を知らずに、ただ、あの日があったことを忘れてはならないと思う人びとがいる。

 それ以前の死者もいる。その家族も友人もいる。何百年も前の死者もいる。町や森はその堆積だ。それらの町や森はひとつではなく、たがいに距離を維持しつつ、いくつもある。しかし、死者たちには、それに束縛されない自由がある。

 https://www.amazon.co.jp/%E8%B2%9D%E3%81%AB%E7%B6%9A%E3%81%8F%E5%A0%B4%E6%89%80%E3%81%AB%E3%81%A6-%E7%9F%B3%E6%B2%A2-%E9%BA%BB%E4%BE%9D/dp/406524188X/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E8%B2%9D%E3%81%AB%E7%B6%9A%E3%81%8F%E5%A0%B4%E6%89%80%E3%81%AB%E3%81%A6&qid=1630988766&sr=8-1