ぼくは、高校生の時、日本史や世界史より倫理社会や政治経済の方が好きだった。だから、世界史がわかっていない。それは、キリスト教史を学ぶ基礎ができていない、ということでもある。だから、ぼくは、キリスト教史の本を読むときは、大学入試基礎レベルの世界史の本を横においている。
この本は、出来事としてのキリスト教史に重きを置いている印象がある。人の動きについての記述がやや細かい。ぼくには思想史の方がおもしろい。
けれども、本著の二つのテーマに興味を惹かれた。ひとつは、キリスト教と国家の関係、もうひとつは、異端問題である。
「宮廷で用いられる儀式や装飾が教会の中に持ち込まれるようになった。たとえば礼拝の始めに行われる聖職者たちの入祭行列、聖歌隊の発達、礼拝の場における薫香の使用、さらに皇帝への敬意を示すために行われていた動作や身振りなどが教会でも行われるようになり、司祭の服装もしだいに豪華な飾りをつけた衣装に変わっていった」(p.87)。
儀式的なものは支配者側からの影響だから排除しなければならない、とは、ぼくは思わない。しかし、支配する側に立つのか、される側に立つのか、という問題意識は忘れてはならないだろう。
「12世紀のワルドー派が異端として排除されたにもかかわらず、13世紀に登場したアシジのフランチェスコの運動は新しい修道会として公認された・・・両者は清貧の主張や説教活動などの実態においてきわめて類似した運動であったにもかかわらず、百年という時間の差がカトリック教会の対応において正反対の結果を生むことになった」(p.233)。
「異端」もまた支配する側がされる側に押す烙印であった。たとえば、人を殺してもよい、人を虐げてもよい、と主張する集団がキリスト教を名乗れば、それは、たしかに邪教である。しかし、支配する側が人を殺そうと虐げようと邪教とされることはない。「異端」は、権力者が自分たちの存在を脅かすものを排除するためのレッテルなのだ。