三十年近く前、ぼくは教会での牧師職を失い、家族と生きるために、ホテルでの「キリスト教式」の結婚式の仕事をすることになった。栗原先生が紹介してくださったのだ。
式場に向かう車をいちど停め、先生は祈ってくださった。その仕事がうまく行きますように、ということではない。失意の底にあるぼくに神さまの慰めがあるように、との祈りだ。
「お前には任地がないと言われれば、地上の教会組織からは干される」(p.207)。先生も同じ経験をなさったのだ。先生の祈りは、ぼくの涙となった。
ぼくはただ生計のために結婚式の仕事をした。けれども、先生は違った。それを教会の「沖合へと漕ぎ出す」(p.13)ことと位置付けた。教会という浅瀬の沖合である。先生は「人間を捕る漁師」の職を放棄しなかった。式を挙げたふたりには後日あたたかな手紙も出しておられたようだ。
先生は資料の保存能力に長けておられる。ぼくもこれまでに何度も貴重な資料を送っていただいた。この人にはあの資料をと思い立ち、それを自分の住居内のどこかからすぐに引き出す。そんなことはほとんどの人にはできない。荷物のどこにしまい込んだのかわからないし、ぼくなどは、しまわずに捨ててしまう。
「定年引退したときに、実は人生を振り返り、喜びごとを数えてみました。生涯授洗者は七十四人・・・葬儀の数は、最初の赴任地、世田谷新町で一人、松山で三人、湯河原で二人、ブライダル時代に一人、日吉で三人、稔台で五人、藤が丘で一人、合計十八人を見送っています」(p.289)。
ぼくは三十年で洗礼や葬儀を何回司式したか、数える資料がない。しかし、先生はそれを保存しておられ、すぐに引き出せるのだ。できないことである。
本書には数十年にわたる先生のエッセイや短文が収められている。どれも、ていねいに構想され、練られ、推敲されたものばかりだ。一度書いてから、最初から書き直されたものもあるだろう。
有名な人びとを含むゆたかな出会いの数々、その後のおつきあいの長さ。ブライダル時代以前からすでに沖合に出ておられた。
今も継続しておられる平和と正義を祈り求める行動。その基となる思考。
深く広い聖書知識。聖書の地を訪問する際に知識をすぐに見聞とすることができる水準。キリスト教にとどまらない幅のある教養。
そして、人生の喜びと悲しみ。それが読む者を支える。
本書のタイトルにはどのような意味があるのだろうか。ぼくはヨハネ福音書を思い出した。
〈ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」〉
先生はまさに最後の預言者と言われる洗礼者ヨハネの弟子であられる。