聖書は、イエスは、誰にむかって、何を語っているのか。神学はそれを記述する想像作業であり、詩作である。コーンは言う、「神学は反理性的なのではなく、非理性的なのであって、理性的な議論を超越し、想像力でしか掴むことのできない現実の領域を指し示す」(p.141)。
コーンは、黒人の過酷な歴史と現実に腰まで浸かって聖書を読むことで、被抑圧者の解放という壮大な詩を構想し、書き上げた。
「自分を憎むのはもうやめにしよう。神が黒人を創造されたのだから、自分自身を、その顔を、大きな鼻と唇を愛そうではないか。そして初めて、私たちは神のことも愛せるのだから。黒人であることは、神から人間への贈り物なのだ」(p.48)。
上の引用の「黒人」のところに「(力によって抑えつけられているあらゆる)あなた」を重ねることを、コーンは許してくれることだろう。「黒人性という個性は、しかし、黒人の内にのみとどまるのではなく、世界中の貧しい人びとへの闘いへと広がっていく」(p.49)。
神は黒人を創造し愛するが、その黒人が人によって「木に吊るされ、原形をととめないまでに焼かれ、その遺体の断片が土産として配られる」(p.204)ことをも隠さない。あらわにする。
イエスの十字架は黒人の「苦しみを軽くすることはなかった。それでも、十字架のゆえに生き延びることができた人びともいた」(p.202)。なぜか。「多くの黒人がそんな中で正気を保つことができた理由は、自分の姿を十字架の上に、イエスが残酷にも磔にされたあの十字架の上に見出したからなのだ。神がイエスと共におられるのなら、私たちとも神は共におられる。なぜなら私たちもまた十字架の上にいるのだから」(p.205)。
ぼくは黒人の何万分の一だが、あれは木に吊るされた、リンチだったと思うことがある。何万分の一ではあったが、苦しかった。もうぼくは死んだと思った。しかし、何百万人の黒人たちがその過酷な生のなかで構想した詩、上の段落の引用のような信仰、神学によって救われる。
その意味でも、コーンの次の言葉は、最良の詩だ。「黒人の痛みの中に、黒人の苦悩の中に、神の啓示があるのだ。それならば黒人の苦しみとは、究極の宗教的権威であって、すべての神学的主張に対して最終的な権限を持つのである」(p.80)。黒人神学は、黒人を解放する神学だけでなく、黒人の経験と信仰があきらかにした神の真理のことであろう。
「過ちを犯した人びとの一人となるより、いわれのない苦難を受けた人びとの一人となりた。苦しめられてきた人びとは、苦しみを与えてきた人びとにすでに優っている」(p.250)。
「過ち」とは、この場合、抑圧、蹂躙、リンチのことである。「いわれのない苦難」とは、すべての面において無垢であることではなく、そのような抑圧、蹂躙、リンチは、どのような人にであろうと向けてはならない、ということだ。
不当な抑圧などない。正当な抑圧がないように。抑圧は皆不当なのだ。抑圧が不当なのだ。抑圧されてきた人びとは、抑圧してきた人びとにすでに優っている。抑圧ではなく被抑圧の中に、神の啓示はあるのだから。