「教会にマネジメントなどという商業概念を持ち込むのは不適切あるいは不謹慎」と感じる人もいるかもしれませんが、本著には適切かつ真剣なことが述べられています。
まず、教会のリーダーに求められるのは、何でも自分でやることではなくて、むしろ、「人に仕事を委任し、調和を取りながら全体をまとめていく」(p.34)こと。
反省。わたしは、何でも自分でやってしまう、というより、人に上手に委ねることができず、「しもべ気どり」になり、しかも、やるべきことをやれていないのでした。
教会は「居場所」となるべきこと。「『居酒屋』はいわば自分の『居場所がある酒場』であり、酒を飲めない人も割り勘負けを覚悟で入り浸った場所でした」(p.46)。
反省。下戸のわたしは、割り勘には不満はありませんでしたが、「入り浸り」はしませんでした。もっと入り浸って(笑い)「居場所感覚」を身に着け、教会に導入すべきでした。
教会のメンバーには、「自分の努力が全体に貢献しているという意識」「自分が能力的・人格的に成長しているという喜び」「働くことの誇り」が必要。
反省。そうしたことに配慮せず、「無理なさらないでください」と言ってみたり、わたしが済ませてしまったりしていました。思えば「先生が全部やってくださった」という言葉のどこかには「私がやろうと思っていたのに」という悲しみがあったのかもしれません。
「これまでの教会の物語」「これからの教会の物語」(p.104)。
いただき! 教会の勉強会では、教会の開拓期を振り返り、これからどのような教会に再開拓していくのか考えてみることを提案してみよう!
「イエスは人々と共に食事をし(コイノニア)、苦しむ人々を癒しつつ苦しめる人々を批判し(ディアコニア)、神の国を宣言(ケリュグマ)なさった」(p.116)。
すばらしい。教会の三つの柱をイエスに遡らせています。
「たとえ手が届かなくても、手を伸ばすこと自体に意味がある、『祈り』」(p.119)。
いただきます! 祈りの本質を見事に述べています。何回も引用させていただきたいです。
「牧師はその教会の一方的指導者ではなく、礼拝ステージの演者でもなく、信徒の『コーディネーター』としての責任を果たすことが求められている」(p.136)。
よいですね! コーディネーターの具体的働きにも触れていただいていればもっとよかったです。ひとりひとりのタラント、働き、存在を尊重することだと思いますが。上からのリーダーシップだけでなく、下からの悲壮感漂うサーバントシップだけでなく、コーディネーター、ファシリテーター。それを学ばないと。心構えだけではできないでしょう。
牧師という仕事の適性。自分を「受けとめている」こと。「キリストに自分が受けとめられていることに信頼していること」(p.152)。人の話を聞けること。「この人もまたキリストに受けとめられていることに信頼していること」(p.153)。
不適性。不適性なわたしが捨てられてそうで捨てられていず、生きてなさそうで生かされていることに感謝するばかりです。
キリスト教を信じればよいことがあるというわけではありません。しかし、良いことばかりの人生でも、悪いことばかりの人生でも、半々でも、聖書の言葉がそこに一緒にあるとき、味わい深くなる可能性はかなり高いと思います。
教会は、自己保存だけでなく、人の人生がもっと味わい深くなったらいいな、という(押し付けではない)使命感をもっと強く抱いてもよいのではないか、とこの本を読んで思いました。