小説や文学の目的は何なのでしょうか。小林多喜二の「蟹工船」を初めて読んだ頃の著者は、「『小説とは人の心の襞』を描くのが本領、というイデオロギーに浸っていた」(p.254)そうです。
ところが、著者はやがて「文学の自立とは文学が文学だけを目的とする、ということらしいが、それは近代のイデオロギーである」(p.154)という認識へと変わっていきます。
「人類は長らく今日いう『芸術』を通して思想(宗教的、社会的、政治的価値)の表現と普及・教育を図ってきた。さらに見逃せないのは、近代文学の核をなしてきた個人の内面描写は、青春の苦悩、そして感傷という癒し、さらには行動回避を正当化する曖昧を美的価値として担ぎ上げることによって大いに社会的役割を果たしてきたことである」(同)。
文学以外の目的や役割を持たない、持ってしまわなかった文学など存在しない。名声、金もうけ、自己満足、美的満足、カタルシス、希望、高揚、民衆の統治・・・文学は多くを担ってきました。プロレタリア文学だけが目的を持つことを非難されるのはなぜでしょうか。むろん、文学になっていないものに「プロレタリア」という冠をつけて「文学」ということにしてしまうことも、はんたいに、立派な文学なのにプロレタリアゆえに「文学」ではないと非難することも許されません。
民衆の団結を目的にして書かれたからといって、「蟹工船」の文学性が低いわけではありません。著者は多喜二に語り掛けます。「あなたが確信していたのは、芸術の世界、想像と想像の世界は便利な逃げ場であると同時に、世界に立ち向かう力を養う空間でもありうる、ということです」(p.10)。
「便利な逃げ場」という表現はどうかと思いますが、ノーマは、多喜二の書いたものが「文学」であり、同時に「プロレタリア」でもあると認めているのです。
「小林多喜二は貧乏人にとって金持ちになることが必ずしも解決策ではないことを示唆していた・・・『貧困の反対は富ではなく、正義である』とは解放の神学者レオナルド・ボフのことばである・・・解放の神学の思想は多喜二とその運動の精神と見事に響き合う」(p.56)。
プロレタリア文学が文学なら、解放の神学は神学ということになります。