入門書であろうと、十代向けであろうと、良い文章は、専門家にも、何歳の人にも、読み応えがある。本書もそのような一冊だ。
現在の学校教育では、学力テストで採点できることを教える。その意味で、それらはみな、「見える」ものだ。学校では、また、自分の考えを「はっきり」と言い表すことが、あるいは、筆者の考えを「はっきり」と読み取ることが求められる。
けれども、若松英輔さんは「自他ともに認知できる『私』の奥に、語らざる『わたし』がいる」(p.191)と言う。自分にも他人にも客観的に見えるものにとどまらず、その奥に「見えない」ものを見る、というのだ。
いつもは見えるものを見ている「14歳の教室」で、いま生徒たちは若松さんとともに見えないものを見始める。
教育では「分かる」ことが重視される。しかし、「人は分かったと思ったことをそれ以上深めることはない」(p.22)ことがこの教室では学ばれる。「この人の話していることは分からない。分からないけど何かがある」(p.23)。探求は、分かることから分からない何かへ深められる。
「『読む』とは、何が書かれているのかを確認するだけではないのです。その書き手が、どのような書き得ないものに遭遇しているかをしっかりと感じ、受けとめることなのです」(p.108)。書き手は書き得ない何かをなんとか書き、読み手はなんとか書かれたものの奥に読み得ない何かをなんとか読む。
「『聞く』とは、究極的には聞こえないものを『聞く』ことである・・・『話す』も同じです・・・語り得ない何かを伝えようとすることです」(p.153)。
見えないもの、分からない何か、書き得ないもの、語り得ない何か、とは何だろうか。この世界をここにあらしめる目に見えない源泉、あるいは神、あるいは叡智ではなかろうか。そして、万物が秘める、目に見えないいのち、人間にやどる、目に見えない心あるいは精神ではなかろうか。さらには、目に見えないがたしかにここにいる死者たちのことではなかろうか。
ぼくが最初に聞いた若松さんの言葉は「死者はここにいる」だったが、それは「目に見えないもの」「目に見えない世界の源」の証言者、案内者のことではなかろうか。