聖書を開くと、イエスは、出会う人の難病を癒したり、目を見えるようにしたり、耳を聞こえるようにしたりしています。そんなことはあるはずがない、だから、キリスト教は信じられないと言う人がいます。そういう人に、ぼくは、いや、本当にあったのですよ、とむきにもなりませんし、ぎゃくに、あったと強く信じる人がいれば、それに反対もしません。
本書は、奇跡が起こったという聖書の記述を否定はしていませんが、それとはかなり違う角度から、イエスを現代日本の人びとに紹介しようとしています。つまり、イエスは、信仰者の話し相手であり、旅の道連れだと言うのです。言い換えますと、信仰とは、イエスと語りながら、イエスと一緒に人生の旅を歩むことだと言うのです。
さらに言えば、イエスとの「対」の関係は、自分以外は一切受け入れない孤立でもなく、国家や企業などの大集団への埋没でもなく、自分が語り、相手が語り、自分が聴き、相手が聴き、たがいに理解し、成長する関係であり、それこそが、キリスト教の伝える人の生きる意味(「人が独りでいるのは良くない」)だと説き明かします。
では、このように、イエスをわかりやすくしてしまうと、わかりにくい(信じがたい)奇跡の方はどうなるのでしょうか。
「奇跡と呼んでいいような思いがけない素晴らしいことが起こり得るという期待と、やはり物事はたぶん経験則通りに起こるだろうというクールな予想を、祈りの中に両立させる・・・これは、キリスト者がごく普通にしていることです」(p.109)。
両立。聖書のイエスは驚くべき奇跡を起こす人だけれども、祈る相手のイエスは、静かに話しをしたり、そばにいたりしながら、交わりが深まっていくパートナーとでも言えばよいでしょうか。どちらも同じイエスです。
キリスト教をほとんど知らない人にはわかりやすく、信徒の人、そして、著者のような神父や牧師は自分の信仰の(知識ではなく)感覚を文字でまとめられたような、「役に立つ」一冊だと思います。
キリスト教の教えを体系化しているのではなく、さきの引用のように、奇跡と常識を「両立」させるなど、信者の実際の心の中をかなりよく伝えていると思います。ぼくも、読んでいて、「あるある。たしかに、こんなふうに思う。ぼくだけじゃなかったんだ」と、かなり楽しめました。
できたら、教会で読書会をしてみたいと思っています。