(76)「自分へのこだわりを手放し、まわりの人や神に心を向けてみましょう」

 部活があったため、中学最初の二年間は、子どもたちは塾に行かせませんでした。その代わりに、通信教育の添削教材をやらせていました。けれども、成績があまり良くないので、教科書に即した市販の問題集も買い与えました。三年生になって、はじめて、塾に行かせました。それでも、一学期末の模試の結果を見て、不安になり、夏休みは、塾の講習のほかに、いろいろと受験用教材もやらせました。模試も何度も受けに行かせました。けれども、心はおだやかにはなりませんでした。(受験の結果は悪いものではありませんでしたが、つぎは、高校の勉強、大学受験が待っていました・・・)子どもたちとその人生を信頼することと、子どもの立場に立つことが欠けていたように思います。

 疲労や動悸や息苦しさ、めまいなどに見舞われた時期がありました。病院で検査を受けても、とくに異常は見つかりませんでした。そこで、本を読み漁り、これは自律神経失調症だなと思い当り、それに良いと言われる方法がいろいろあることを知りました。漢方薬鍼灸、マッサージ、呼吸法、心療内科心理療法、散歩・・・。それらのいくつかを試し、たしかに効果を感じたものもありました。けれども、どうしても自分の体調ばかりに意識が行き、空や歴史や世界などといった自分を超えた大きな存在や、あるいは、まわりの人びとのことには、あまり思いが行きませんでした。

 新約聖書によりますと、イエスのところにある人が訪ねてきます。神に救われたいと願ってやって来たのです。盗まない、殺さない、虚言を弄さない、親を敬う。そうしたことをしっかり守ってきた、とその人は言います。

 すると、イエスは、「では、にぎりしめている物をすべて売り払い、貧しい人びとに施しなさい」と言いました。

 わたしたちは何を握り締めているでしょうか。問題を解決するためのいろいろな方法、自分の力、信念、正しさ、これまで考えてきたこと、してきたこと、財産、地位、学歴・・・。そうしたものをにぎりしめていないでしょうか。

 イエスはそれらを手放し、神のような、自分よりもっと大きな存在に委ねよ、と教えているのではないでしょうか。自分という小さなものではなく、もっと大きなものに、自分自身を委ねよ、と言っているのではないでしょうか。

 自分にしがみつくのではなく、意識を自分の外に向けよと。自分の外には何があるのでしょうか。そこには、世界や歴史、大空、神のような自分をはるかに超える大きな存在があり、どうじに、貧しい人びとのように、自分のすぐそばで生きている他者(他人ではない!)がいるのです。自分や自分のすることから、自分の外にいる神と隣人に、心を向けることをイエスは促したのです。