考えるとは、孤独な作業だ。試験の答案用紙に向かうとき、原稿用紙にペンを走らせるとき、頼りになるのは自分の思考だけだ。
けれども、本当にそうだろうか。問題を解くときは過去に触れた誰かの知識や情報を参考にしていないだろうか。文章を書くときはこれまで読んだ他者の言葉を自ずと参照していないだろうか。
自分ひとりの考えには限界がある。自分ひとりのものと思っているその考えも他者の思考の影響や支援を受けている。ならば、ひとりではなく、何人かの人びとと一緒に考えれば、その壁を今より外に押しやることができるのではないか。
言うことを制限される。否定的な反応を受ける。聞いているだけでなく発言するように促される。問いがないから考えることもできない。話をまとめなくてはならない。意見を変えてはならない。分からなければならない。
ぼくたちの思考を縛るこれらの制約が、著者が本書で紹介する哲学対話ではかなり取り除かれる。そこでは何を言ってもいいし、わからなくってもいいのだから。
ぼくたちの普段の議論では、たがいにただ言いたいことを言い、相手の言葉に条件反射的に反応するだけの場合が多い。言いたいことを言うことや反射的に返答することは、じつは、考えることではない。何よりも、他の人の言葉や思考をも自分の回路に取り入れるような考え方ができていない。わかりやすくいえば、他の人の頭を使っていない。自分の頭だけに、いや、情動だけに頼っている。
しかし、「哲学対話をやってみると、普段と全然違った感覚をもつ。よりじっくり考え、言葉を選んで話すようになる。話す量が減り、スピードもゆっくりになり、それでいて頭はいつもより使う感じがする」(p.154)。
本書で言う「哲学対話」は哲学者についての議論のことではない。共同で思考することで、個人の思考の限界から少しだけ、自分の殻から少しだけ自由になることだ。
「?何を言ってもいい。?人の言うことに対して否定的な態度をとらない。?発言せず、ただ聞いているだけでもいい。・・・・・?話がまとまらなくてもいい。?意見が変わってもいい。?わからなくなってもいい」(p.47)というルールに基づいて、皆で考えること、あるいは、皆の考えを聞きながら、皆に聞いてもらいながら、自分も考えることだ。