(73)「イエスの言葉は、情報をもたらす以上に、人に働きかけます」

 「大丈夫だよ! 明日の試合はきっと勝てるよ!」 試合の結果はどうであれ、この言葉は「ウソ」ではないでしょう。なぜなら、これは、試合結果のニュースでもなければ、試合前の予知でもないからです。そうではなくて、激励や鼓舞や慰撫の言葉なのです。

 「あなたはぼくの太陽です! あなたなしでは生きていけません。」 たとえその人が太陽ではなく、ただの人間であっても、あるいは、(悲しくても)その人なしでなんとか生きていくだろうとしても、この言葉も「ウソ」ではないでしょう。なぜなら、これは、その人についての情報でもなければ、話し手についての情報でもないからです。そうではなく、その人がいかに大切な存在かをなんとかわかってもらいたいという情熱の言葉なのです。

 「あなたは花のように美しい。花を見るとあなたを想います。」 この言葉は、たしかに、あなたについての情報であり、話し手のついての情報でもありますが、それにとどまらず、それ以上のことを含んでいます。これは、「あなたのことを大切に思っています、あなたを想うことはわたしの喜びです」というメッセージです。だから、どうしてください、ということでもないけれども、奏でるべきときが来たら奏でたい、あるいは、ずっと奏でないままにしておきたい、心に秘めた旋律です。

 言葉には、相手に情報をもたらす働きだけでなく、それに加えて、相手の心を響かせる働きがあります。

 新約聖書によれば、イエスは「信仰を持ち、疑わないならば、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」と言いました。けれども、そんなことはありません。では、この言葉は「ウソ」なのでしょうか。

 イエスは、この言葉によって、情報を述べたのでもなければ、法則を伝えたのでもありません。そうではなく、じつは、「人生を信頼して生きていこう。自分の力を越えたことについては、神に委ねよう。人生そのものを神に委ねよう」と人々を招いているのではないでしょうか。

 イエスは、言葉の力によって、人びとを励まし、慰め、そのことで、人生に奇跡を導こうとしたのではないでしょうか。ただし、その言葉には、広告代理店によるコピーなどとはまったく違う、真理と深淵があるのではないでしょうか。

 (ちなみに、イエスは、病気の人を癒したり、嵐の湖を静めたりしましたが、じつは、山を動かして、海に飛び込ませるようなことはしたことがないのです。病気の癒しや嵐の湖の鎮静は、さらに言えば、旧約聖書モーセがなした海を渡ることも、奇跡が起こらなくても、自然現象としてあり得ますが、山が海にまで移動するということは、短期間の自然現象としてはあり得ないので、さすがにそのような奇跡物語はないのでしょう。)