「バルトの教義システムはたしかに一本背筋がぴしっと通っている。そしてそれが、神ならぬものを神とする現代の偶像崇拝に抗して、教会を真に教会たらしめる最強の論理となることもわかる。だが、それだけでいいのか」(p.19)。
ぼくは徹底的に自己中心だ。隣人や神をも、自己からしか思うことができない。考えだけでなく、行動も結局は自分のためにする。誰かに仕えるときも、誰かに仕えたいという自分の欲望を満たすためにそうする。こんなぼくは決して救われない。ぼくはぼくを救うことはできない。
けれども、神は救われないぼくを救ってくれる。パウロやルター、そして、バルトの神学は、ぼくのこの思いを支持してくれる。バルトの教義システムを学んだことはない。30年前にローマ書を読んだだけだ。けれども、バルトは、ぼくの信仰の主柱のひとつだ。
しかし、本書の著者、栗林先生は、「だが、それだけでいいのか」と問いかけることで、本書を始めている。
「世俗化の神学」「神の死の神学」「政治神学」「黒人神学」「フェミニスト神学」「プロセス神学」「ポストリベラル神学」「ポストモダン神学」などが本書では紹介されているが、その方法は、ある神学によって別の神学を問う形式だと言えるだろう。言い換えれば、ある神学は先行する神学への批判として生まれてくるのだが、その批判の内容が本書ではひじょうにわかりやすい。
あとがきで記されているように、栗林先生は、グティエレス、ボニノ、モルトマン、キュング、デイリー、トーマスなどの神学者をライブで経験しておられる。ゼレは「ドイツから来た魔女」とアメリカの学生に呼ばれていたとか、パネンベルグは解放の神学について問われると顔を赤くして怒鳴ったとか、コーンは栗林先生の配偶者が白人という理由で博士論文審査を拒否したとか、というようなエピソードまで紹介されている。
栗林先生ご自身は解放主義の視点をお持ちだ。先生の名を世に知らしめた「荊冠の神学」もそうだ。「バルト以後から現在のポストモダンまでの外観に添えて、本書がもうひとつ試みたのは、そうした諸神学を解放主義の視点から論評し、現代キリスト教のパラダイム・シフトを跡づけることだった。現代神学の諸潮流を紹介し、それを解放主義の立場から評論する―そうした試みは、筆者の知るかぎり日本では初めてである」(p.256)。
「バルトは、ぼくの信仰の主柱のひとつだ」と先ほど述べたが、じつは、ラテン・アメリカの解放の神学、韓国の民衆神学なども、ぼくの信仰を支えてくれている。もちろん、「荊冠の神学」もそうだ。だから、栗林先生が、バルトだけでいいのか、と問いつつ、解放主義の視点で展開される諸神学批判には、非常に大きな、親近感を持つ。
さて、バルト神学後退の理由は「あまりに悲観的な歴史観や人間論のゆえに」(p.17)、「ある種、歴史的人間への不信と言えるもの、ストイックな真摯さが、六〇年代の世界的な政治的高揚、転換の時代に足かせになったのは否めない」(p.18)と本著では述べられている。
しかし、21世紀の反知性的政治状況、悲惨な事実、不信を抱かざるを得ない言説と行為の蔓延を思うと、もういちど、ぼくたちは自分の悪や虚偽の部分を徹底的に批判すべきではなかろうか。けれども、悪や虚偽がぼくらのすべてではなく、ぼくらには善や真実もある。悪や虚偽を徹底的に認めるとき、善や真実もふたたび輝くのではないか。
バルトも解放主義もそれぞれの仕方で、ぼくらの闇を暴く。その上で、あらたな人間性を育てていく神の恩寵を、それぞれの仕方で示しているのではないかと思った。
バルトも解放主義もまだまだ古くない。それに、現代聖書学も加えて、21世紀神学の三本柱とぼくは考える。