佐藤優さんはたしかに異能者だと思います。驚くべき人生経験、政治経験と抜群の記憶力、神学・哲学の蓄積と分析、その語りには、どこか、立花隆さんや中井久夫さんのような知の巨人を思い出させるものがあります。たしかに、そう思わせる力量があります。
けれども、やはり、彼らとの違いも感じます。文体も内容も、教養的というよりは、新聞、雑誌的に思えます。この本も、講演と座談会を文字に起こしたものです。すぐに読み終わります。題名が内容からまったくはずれているとは言いませんが、それについての緻密な論考とは言えないでしょう。神学論文の参考文献にして、引用できるような種類の言葉ではありません。佐藤さんには、ぜひ、一度腰をすえて、じっくりと書き下ろしていただきたいと思います。「神学の履歴書」(新教出版社)のようなスタイルでよいと思いますが、もっと引用を減らし、もっとていねいに書いていただきたいと思います。論考は深いと思いますが、もっとていねいに説明していただきたいのです。50年後に残る本を期待しています。
さて、この本ですが、座談会などで質問者の質問と著者の答えがかみあっていないとか、帯に記されている「キリスト教の土着化」について、とくに、日本におけるそれについては散見される程度でほとんど具体的に触れられていないとか、題と内容がぴったりとは一致していないとか、良くないと思った点もありますが、良かった点もたくさんあり、とても有意義な読書になりました。
「こういう反知性主義は、仮に高等教育を受けていても、司法試験に合格していてもそうなります。今の安倍政権の問題はそこなのです。真理はあなたを自由にするわけですから、このような反知性主義的なるものと、キリスト教徒がどう向かい合っていくのかというのは非常に重要なことだと思います」(p.63)。
これは今の日本での「キリスト教の土着化」の課題のひとつと言えるかもしれません。しかし、佐藤さんはこうも述べています。
「安保法制に関しては、これができても今までと何も変わりません。明日戦争が起きるわけでもなければ、これによって日本の安全保障対策が強化されるわけでもありません。外交や安全保障問題には固有の文法があります」(p.124)。
けれども、キリスト者が安保法制に反対することには、まさに、現代の日本における信仰告白的姿勢が示されており、安倍政権の反知性主義に抗って、真理を求めることではないでしょうか。
「今の政府はけしからんから特定の運動に加われ、それが教会の課題だと、短絡的にそう言うのは二重三重の飛躍があります」(p.123)。
たしかに、運動参加をすべてのキリスト者に迫ることはよくないですが、日本にいるキリスト者たちの一部が「短絡的に」この課題を担っているとは思えません。かなりの経験と考察、祈りがあると思います。
沖縄については、講演の中で久米島出身のお母さまの経験をおどろくべき記憶力と語りで再現しておられ、巻末に近いフリートークの部分では辺野古基地反対の立場と理由を説得的に述べておられます。しかし、それはつぎの言葉で結ばれています。
「ただ、この種の問題というのは教会がストレートに扱う問題ではないと私は思います。しかし教会として知らないといけないのは、こういう見方を沖縄はしているし、数字として実証的にはこういう構造になっているという知識を持つことは必要です」(p.160)。
これも題にある「現代」と「信仰告白」についての非常に重要な部分ですから、もうすこしていねいに展開していただけたらと思いました。ただ、もしかしたらですが、教会全体がこの課題に取り組むことを求めはしないが、自分はそこに身を置く、というかも知れないなと思います。ぼくは、佐藤さんが県知事になって沖縄の人びととともに日本国家と闘うという展開はありではないかと思っています。
他にも目についた個所がいくつかあります。
「田川建三さんが自分の聖書に非常にこだわって、『これが正確だ』といっても結局はネストレ第27版の下の注のところでの異本を適宜入れているだけです。その基準は彼の信念というか興味です。信仰という観点からすれば、文献学というのは補助学にすぎずいい加減なものです」(p.141)。
「いい加減なものです」はフライングだと思います。
「バルトの文体は読んでびっくりしますね、何を言っているか分かりませんから(笑)。あれはびっくりさせるために、わざとそう書いているのです。その背景は、普通に書くと読者がよく考えないからです。びっくりさせないと考えません」(p.120)。
なるほど。ぼくも説教に「わかりやすく」だけでなく、「わからない」「びっくり」路線も導入してみましょうか。佐藤さんの「神学の履歴書」はぼくには「何を言っているか分からない」ときがありました。その分、考えさせてもらったのかも知れません。本書は分かりやすいと思ったのですが、「良くない」と思うと最初に述べたところに、じつは、読者の考えるポイントがあるのかも知れませんね。
「教会のなかには独特の掟があります。それが外の人から見れば敷居になっているし、一見さんお断りになっています。それは宗教団体として当たり前のことなのです。もし出入りが自由なら公衆便所と一緒なわけです(笑)。だからそうしてはいけないのです。確かに教勢を広げたい、教会を大きくしていきたいという願い、望みはあります。けれどもそれは、どちらかというと資本主義の、拡大再生産の話ですね」(p.129)。
小さな教会をなんとかしようとするとき、教会が敷居を低くする、入りやすくする、ということを、ぼくらは考えるわけですが(かならずしも、そうできないし、そうしても、人が増えるわけでもないですが)、佐藤さんのこの言葉に触れ、再考を促されました。ただ、神学的に言えば、教会の敷居を低くすることにはケノーシス(おのれを虚しくする)の側面もあるのではないか、とも思います。
「神に対してはいつも誠実でいたい。知においても誠実でありたい。しかし国家に対して誠実であるということについては、率直に言うと、もう国家のことに関わりたくありません」(p.130)。
神への誠実と知への誠実が並ぶところが大事だと思いました。国家への誠実についてのためらいは、さきほどの、沖縄問題などの運動に教会がストレートに参加することへのブレーキとつながっているのかも知れないと感じました。
「社会制度であるとか国家制度であるとか、あるいは歴史認識であるとか、これらは究極以前のものです。そういうものは極力論理の力を使って理解すべきです。なぜなら、われわれはロゴスというものを神からもらっているからです。しかしそれでも、どうしても解決できない『外側』の領域があるということを、われわれは認識しないといけません」(p.148)。
ここにも神と知への誠実が述べられていると思います。ロゴス=論理なのでしょうか。それとも、論理と『外側』=神、それを媒介するものがロゴスなのでしょうか。いずれにしろ、佐藤さんは、知解を重視した信仰であるけれども、知解即信仰としない節度も明確にしておられるように思いました。