(43)「わからないけれども大事なものを迎えること」

「世界のことがわかってきたような気になるのは、わからないものを切り捨てていくからである」。これは「バカの壁」の著者にして解剖学者の養老孟司さんの言葉だそうです。哲学者の鷲田清一さんは朝日新聞のミニコラムでこの言葉を紹介し、(養老さんは)「自然のことは今もってわからないことばかりだと言う。・・・・・わからないけれどこれは大事と知ること。わからないものを前にして、わからないままそれに正確に対処できること」と続けています。

 たしかに、わたしたちは、わからないものは切り捨てて、自分のまわりをわかったつもりのことがらだけにしようとしてしまいます。けれども、上のふたりが言うように、ほんとうは、わからないけれども大事なものがあり、わからないなりにそれが大事なものであることをわきまえ、わからないままでそのものと向かい合うことが大切なのでしょう。でもそう簡単ではなさそうです。

 クリスマスはイエス・キリストの誕生日。それは12月25日、というのは誰でも知っています。けれども、それは、いったいどこに書いてあるのでしょうか。じつは、聖書にはそんなことは書かれていないのです。新約聖書にはイエスの誕生について書いていますが、その日付どころか季節さえ知る手掛かりは見当たりません。それでも、クリスチャンは、イエスの誕生を大事にし、毎年、祝っているのです。

 救い主のやってくる日について、新約聖書には「その日、その時は、だれも知らない」というイエスの言葉があります。「だから、目を覚ましていなさい」「あなたがたも用意していなさい」とイエスは言葉を続けています。

 いつなのかわからないのに、どうして、その日が来るのを目を開いて待ち構えていたり、用意をしたりすることができるのでしょうか。最初の段落で引用した「わからないものを前にして、わからないままそれに正確に対処できること」と同じように難題に思えます。

 けれども、神とは人間が把握したり、操作したりすることのできる相手ではない、救いとは神のなすことであって、人間が自分で到達したり、引き寄せたりすることのできるものではない、とイエスは言おうとしているのではないでしょうか。人間は、神がそうしてくれるのに気づくだけだと。神がすでにそうしてくださっているのだから、人間は、目を覚ましてそれに気づくべきだと。

 わたしたちはいつ人生を終え、自分にはわからない世界に旅立つのかわかりません。けれども、そのときは、人生に感謝し、そこからさきは、神の手に委ねたいと思います。残りの人生は、そうできるようになるための用意の時間ではないでしょうか。わたしたちは死や神をわからないままに、このように向かい合えたらと思います。