ぼくは、聖書を読み、「解釈」し、そのテキストのメッセージを汲み取り、何らかの工夫をして、それを数十人の人びとに伝える、という仕事をしています。つまり、キリスト教の牧師です。学者さんは、もしかしたら、「工夫」にはあまり時間を割かず、解釈をそのまま伝えるのかも知れませんが、ぼくらには、メッセージを相手の心や体に染み込ませる努力が求められます。それは、洗脳などではなく、むしろ、音楽の演奏に近いように思います。
この小説に出てくるピアニストたちも、まず楽譜を「解釈」し、作曲家のメッセージを汲み取り、それを自分の「演奏」で伝えます。同じ音程、同じリズム、同じ強弱であっても、ひとりひとりの演奏は違います。それを「工夫」と呼んで良いのか、「表現」と呼ぶべきなのかは、ぼくにはわからないのですが。
「解釈」は英語ではinterpretationです。そして、interpretationは「演奏」とも訳せます。ぼくらは、聖書のテキストを解釈し、「工夫」して演奏します。それを「説教」と呼んでいます。ピアニストは、楽譜を解釈し、それを演奏します。それは、ひとつの作業のふたつの側面なのかも知れません。両者は、こうして、何かを聴き手の心身に伝えようとするのです。だから、この作品は、ぼくら聖書の演奏者への示唆に満ちています。
「音楽それ自体が有機体のように『生きて』いる」(p.291)。
ぼくらの説教も、単調な死んだような説明ではなく、二〜三十分にわたって生きる生命体でありたいものです。
「彼女自身がピアノを媒体とした、巫女か依代のようなのだ。彼女を使って誰かが『弾いて』いる」(同)。
けれども、彼女は意識なしに演奏しているのではありません。終われば、起こったことをすべて忘れてしまうのでもありません。自分は自分でありながら、その自分を何かの道具として差し出しているのです。ぼくらの場合は、神のメッセージの語り部、という道具になるのです。
「彼は観客を根こそぎ彼の風景の中に連れてゆく――広くて思いがけないところに連れ出してゆく」(p.390)。
ぼくらは、聴き手を「イエスの居る風景」に連れてゆきたいのです。
「彼自身の才能が起爆剤となって、他の才能を秘めた天才たちを弾けさせているのだ・・・・・真に個性的な才能を、風間塵の演奏を触媒として、開花させる・・・・・」(p.423)。
天才が天才を、のレベルではなくても、ぼくらは、聴き手の中に、イエスとの出会い、神との出会いの炎を立てる導火線になりたいのです。
「耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている」(p.505)。
「世界に満ちている、この濃密な何か」(p.506)。
「この、命の気配、命の予感。これは人を音楽と呼んできたのではなかろうか。恐らくこれこそが音楽というものの真の姿なのではなかろうか」(同)。
世界に満ちる「命の気配、命の予感」。
聖書は、イエスは、そして、ぼくらは、これを「神」と呼び、「霊」と呼んできました。