(36)「わたしたちには死で終わらない何かがあります」

 死んでしまったら、すべてがおしまいになってしまうのでしょうか。肉体の生命、わたしたちの生物としての生命が終わってしまったら、すべてなくなり、ゼロになってしまうのでしょうか。

 わたしたちは、そういう虚無感に浸ってしまうこともありますが、はんたいに、死者とのあいだに何かを感じ続けることもあります。たとえば、お葬式です。死によってその人のすべてが終わってしまったのだったら、葬式はなんのために、誰のために行うのでしょうか。一周忌、三周忌などは何のためでしょうか。これは、じつは、わたしたちと死者との関係がなくなってしまっていないことを、交わり、つながりが生き続けていることを意味しているのではないでしょうか。

 先日、子どもの高熱が続き、大学病院の夜間診療に駆け込みました。町医者にかかっていたにも関わらず一週間も熱が下がらず、二日前もここで診てもらい、もう安心と思っていた矢先に、また40度を超え、子どもの心身も限界に来ていました。

 待合室で手をあわせ、祈りました。いや、頼みました。相手は神ではありませんから。数年前に天に帰った父と母に、頼んだのです。あいつを助けられるのなら、そこから助けてやってくれと。頼むことができる。つまり、父と母とぼくとのつながりは、じつは、終わっていなかったのです。

 本を読むときもそうです。作者は何年も前に死んだ人の場合があります。けれども、本を読むとは、その人の声を聞き、その人に答えることではないでしょうか。精神のやり取りがあるということは、その人は死で終わったのではなく、何らかの形で存在し続けているということではないでしょうか。

 聖書にこんな話があります。イエスと親しかったラザロという人が死にました。周りの人は悲嘆にくれます。遺体に包帯を巻き、墓に葬り、しっかりと塞ぎます。

 けれども、イエスは、「ラザロ、出て来なさい」と叫びました。そして、墓から出て来たラザロの包帯をほどいてやります。

 作り話にしか思えませんが、この物語には、大きな意味があるのではないでしょうか。つまり、イエスは、ラザロとの愛、ラザロとのつながりは、死をもって終わるのではなく、いつまでも続くと信じ、じじつ、それをつらぬいたのです。