338  「花が愛おしい、そのわけ」  「殉教者」(加賀乙彦、講談社、2016年)

 17世紀、徳川の世の初め。大荒れの航路、砂嵐の陸路。5年をかけ日本からローマに辿り着くも、そこで修道士となり、神父となるや、また7年の航海を経て、日本を目指したペトロ岐部カスイ。

 キリシタン禁令ゆえにやがて捕まり死刑にされることが分かっているのに、なぜそうするのでしょうか。殉教者になることへの憧れでしょうか。たしかに、やや行数を使い過ぎているとも思える、聖書の記述の再話的引用は、じつは、イエスのように生き、イエスのように死にたいという岐部の祈りと、イエスの生きた道筋の重ねあわせでしょう。

 けれども、それは、自己実現や栄誉のためではありませんでした。

「聖書に出現するイエスの説教は素晴らしい。難しい言葉づかいや込み入った議論はまったくなくて、人が天国に行く道を教えてくれる。困っている人、虐げられている人、差別されている人のために、危険や悪口をものともせずに、近づいて祝福する。イエスを信じる、それこそがわが信仰である」(p.34)。

 このようなイエスを信じるということは、自分もこうした人びとに「近づいて祝福する」ということでありましょう。

 「人間に生まれた以上いつかは死の時を迎えねばならぬ。ならば、その死がなるべく主の死に近い形で訪れたまえ。普通の死には痛みがないのが多い。それは安楽の死である。しかし、私はあえて主の死に近い苦しみの死をのぞむ。おお苦しみの死こそ、主の願われた多くの人びとの幸いを守る、それがイエスの教えたもう本当の死である。苦しみ悩む多くの人々の天に於ける幸福を守る死こそ、苦しみ多きものになる。しかし苦しみの死は、イエスの復活のごとく、永遠に生きるための楽しみの死に変化する」(p.103)。

 ここでは、ただ自分が「永遠に生きる」ことだけが目的ではありません。それはむしろ結果でありましょう。目的は「多くの人々の幸いを守る」ことなのです。死後の幸せだけでなく、迫害され、いのちの危機にあり、希望を絶やしてしまいかねない人びとを守ることなのです。

 「われは灼熱の痛みに、じっと耐えた。微動だにしなかった。が、内心では懸命に祈っていた。主よ、われは今すぐ死ぬるのを望みまするが、すべては御心のままに! ホザナ、ホザナ!」

 ここで一行、空けられます。

 「灼熱の痛みが消えた。主が痛みを消してくださった」(p.228)

 これにつづく、最後の二行は、どうぞ、この小説を手に取ってお読みください。

 あとふたつ、心に残った場面があります。

 「サウロ、のちの聖パウロの回心した町にいることを知り、主イエスの声を自分もぜひ聞きたいとひざまずいて祈った。主は沈黙していたが、長い苦難の旅路に疲れ果てていた体に不思議な活力が注入され、息を吹き返し、新しく元気いっぱいな一歩を踏み出す喜びが満ちてきた」(p.80)。

 「主は沈黙していたが」・・・「活力が注入され、息を吹き返し」というところが、祈りの本質ではないでしょうか。

「嬉しかったのは、イエスの説教した場所が百花繚乱と形容していいほど、さまざまな花に飾られていることである。春のまっさかりの大地にこれだけの花を咲かせるデウスの素晴らしい力を見られるさちを思う」(p.83)。

 大地に生きるものは、皆、一輪の花ではないでしょうか。ぼくたちは、どうして花が愛おしいのか、そのわけがわかりました。
 
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