句集「龍宮」(照井翠、角川書店、2013年)
大津波が押し寄せ、岸をはるかに乗り越え、すべてを倒し、すべてをさらい、海に戻って行った。歌人はそこに立っている。
「春の海髪一本も見つからぬ」
「三・一一神はゐないかとても小さい」
「人類の代受苦の枯向日葵」
「栗の花即身仏の濡るる唇」
絶望、不条理、慟哭、無情。どの単語も届かない。歌でなければならない。神はいない。いや、とても小さい。小さくてもいてもらわなければ困る。問いかけなければならないからだ。「髪一本見つからぬ」が、虚無ではない。虚無の向う側が垣間見られる。
「亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり」
「春光の揺らぎにも君風にも君」
「外の輪は脚の無き群盆踊」
悲しい。けれども、批評家・若松英輔さんの言葉を借りれば、その人がそこにいるのが感じられるのに触れることができないから悲しい。悲しみは、死者がそこにいることのしるしなのだ。
「しら梅の泥を破りて咲きにけり」
「月虹の弧を黄泉(くわうせん)へ継ぎにけり」
「朝顔の遥かなものへ捲かんとす」
歌は限りあるものを永遠なるものへと案内する。歌は永遠なるものに触れた唇から奏でられる。
ぼくがつづり続けてきた誤読ノートの311にこの書が当たったのは、偶然ではない。