397 「『初めに言があった』とは、まことだった」  「言葉の贈り物」(若松英輔著、亜紀書房、2016年)

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。新約聖書ヨハネによる福音書の冒頭のこの言葉を、本著はみごとに伝えています。しかも、読みやすいエッセイで。けれども、洒脱でも軽妙でもなく、じつに深々としているのです。大樹の根のように。

「言葉とは、永遠に言葉たり得ない何ものかの顕現なのである」(p.48)。

「哲学という言葉が苛烈な力を持って若い私を魅了したのは、人間が感じる世界の彼方にある、もう一つの世界をかいま見させてくれると思ったからだった」(p.86)。

「彼(ソクラテス)がまずとらえたのは、人間の問題ではなく、彼が「知恵」と呼ぶ神の働きがいかに世界で働いているかという理(ことわり)だった」(p.89)。

「彼女(志村ふくみ)は現代において、染織を再び人間と人間を超え出るものとの間で行われる出来事へと立ち戻らせた」(p.92)。

「柳にとって民藝は、単に人間が制作したものではなく、人間を超えた何者かから遣わされた美の化身だった」(p.93)。

これらの引用にある「永遠に言葉たり得ない何ものか」「人間が感じる世界の彼方にある、もう一つの世界」「知恵」「人間を超え出るもの」「人間を超えた何者か」こそが、言葉の故郷であり、言葉そのものでもあるでしょう。ヨハネに即して言うならば。

けれども、「人間を超えた」「彼方」なるものは、わたしたちと無縁の世界にあるのではありません。「根にふれたければ、遠くへ探しに行ってはならない。その力を掘ることの方に向けなくてはならない・・・花や果実はときに、手の届かない場所にある。だが、根はいつも私たちの足もとにある」(p.14)。

言葉がそのようなところを故郷とするのであれば、「私たちが書かなくてはならないのは、誰かに評価されるような記号の羅列ではなく、自分をも驚かせる生ける言葉なのではないだろうか」(p.57)。「自分をも驚かせる生ける言葉」は、じつは、わたしたちが書くのではなく、わたしたちはじっと深く聞こうとするとき、彼方からやってくるものであり、わたしたちはその言葉を伝える器になるだけなのです。

「ただ言葉を、思いを表現する道具であるかのように考える態度から少し離れて、言葉が自ずと語り始める小さな場所を準備すればそれで十分なのである」(p.58)。

「何かを書きたいと願うなら、まず心に言葉にならないものを宿さなくてはならない。そして、その種子を静かに育て、心のうちで芽吹かせなくてはならない」(p.59)。

言葉を書くことが人間を超えた彼方に聞くことであるならば、あるいは、足元の大地を深く掘ることであるならば、読むあるいは見ることはどうでしょうか。「「読む」にはそもそも、言葉には表し得ないものを感じとるという働きがあるらしい」(p.139)。「詠むとは、言葉を永遠の世界に届けようとする営みでもある」(p.140)。「ここでの「ながむ」は、物理的な距離を示す言葉でありながら、同時に現実世界の奥にある、もう一つの世界を感じることを示す言葉になっている」(p.146)。

聖書を読み、語る仕事に就いて短くはなく、さまざまな聖書の読みに触れてきましたが、ヨハネ福音書をこれほどしっかりと説き明かしている書物はほかに知りません。若松さんは、しかも、ヨハネ福音書については一言も述べてはいないのです。

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