世界トップレベルの新約聖書学者の、比較的短い文章集。(全10巻と別巻からなる著作集はすでに岩波から刊行されている。)
本著には、荒井さんの研究成果である学問的なものに加えて、彼の信仰に基づくものや現代日本社会・正義・平和にかかわるもの、個人史、個人的経験が含まれている。世界有数の新約学者であり、名文家であることが伝わってくる。
聖書を学問的に研究することには、たとえば、聖書という西洋古典に記されていることの必ずしもすべてが事実に基づくわけではないという前提や結論を伴う。これを「不信仰」と思う者もいるが、学問研究と信仰を両立させるキリスト者も少なくない。荒井さんもそのひとりだ。聖書に書かれていることすべてがそのまま事実としなくても、聖書に基づく信仰はじゅうぶんに存在しうる。
キリスト教の思想史を研究したりみずからキリスト教の思想を体系化し叙述する人を組織神学者と言うが、荒井さんは聖書学者であって、キリスト教の世界では、彼を組織神学者とみなすことはほとんどないであろう。
しかし、本著のタイトルの意味を、キリスト教とは何なのか、どんな内容なのかを、あらためて考え直し表現し直す、ことだと受け止めるなら、荒井さんは組織神学者の資質も十分に備えているのではなかろうか。
本著の巻末にこうある。「キリスト教とは『イエスははじめから神の子キリストである』と信じる宗教である、という教会における従来の定義から、『社会的弱者の一人になり切ってその生涯を貫徹した人間イエスは神の子キリストである』と信じる宗教へと『再定義』しなければならない」(p.523)。
荒井さんは、イエスを「神の子キリスト」と表現することは放棄しない。しかし、福音書の言葉から「『イエスははじめから神の子キリストである』と信じて」書かれている部分を削り落とし、社会的弱者として生き抜いたイエスの姿を浮かび上がらせ、このイエスこそが神の子キリストだと言うのだ。
「イエスは、大声を放って息絶えた・・・百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、『ほんとうに、この人間こそ、神の子だった』」(マルコによる福音書15章、岩波、佐藤研訳)。
ちなみに、わたしが読む限り、本書はすべて荒井献さんの真正の言葉であり、編集者の編集意図による語句の付け足しはないと思われる。