「生かされている」と言います。わたしたちは、自分一人の力で生きているのではなく、誰かによって、何かによって、生かされています。まわりの人びとに支えられています。あるいは、たとえば、会ったことはないけれども農業漁業で食をもたらしてくれる人びとに、わたしたちは生かされています。
けれども、そのような誰かだけでなく、わたしたちの中にはわたしたちを生かす何かがあります。いのちがあります。わたしたちの内奥には、わたしたちを土や木の人形にとどめず、わたしたちに息をさせ、動かし、考えさせ、感じさせ、愛させ、生かす何かがあります。
旧約聖書・創世記2:7 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
紀元前数世紀のユダヤの人びとは、それを「命の息」と呼びました。
本書の著者の一人、八木先生によれば、一世紀、イエスはそれを「人の子」あるいは「神の支配(国)」あるいは「聖霊」と呼び、パウロは「キリスト」と呼びました。
もう一人の著者である上田先生は、「限りない開け」「我は、我ならずして、我」という表現をしました。
イエスに学んだ者と禅に学んだ者が語り合い聞きあい、イエスに学び、禅に学ぶ消息がこの本には記されています。
「もし二つの全く独立して成立発展した宗教に基本的一致があれば、それは両教の相対性というよりは、むしろ真理性の証明になると思ったのです」(p.269、八木さん)。
「異なる登山口では月の見え方が違う」(p.285、八木さん)。
ぼくはキリスト教の牧師ですが、本書は、仏教を学び資格を持つ方から頂戴したものです。
この方とは、数年間、キリスト教や仏教の本の読書会を続け、まさに、八木さんの言う真理性の何分の一かを教えていただきました。感謝いたします。