「ダイヤモンドより平和がほしい」(後藤健二、2005年、汐文社)
アフリカ、内戦のシエラレオネ。兵士らは家を襲い、両親を殺し、子どもたちをさらい、あらたな兵士に仕立てます。少年兵士らは、大人の兵士に教えられるままに村や家を襲い、人びとの手足を切り落とします。人を殺傷することへの感覚を麻痺させるために、体内に麻薬を埋めこまれます。
そうした子どもたちを救い、寮に住まわせ、学校に通わせる神父さん。「確かに、彼らは罪をおかしたかもしれません。でも、彼らは同時に犠牲者なんです。子どもたちは強制されて兵士になったのです。人殺しが好きな子なんて、どこにもいないのです」。
後藤さんがこういう言葉を取材するのは、後藤さん自身がそう信じているからでしょう。少年兵士に手と耳を切り取られた犠牲者は言います。「もし、その子がおれの目の前にいたとしても、おれは彼を責めない・・・・・でも、絶対に忘れることはできない・・・・・もともとおれには、二本の手があったんだ」。これも、後藤さんだからこそ、聞き取り、書き記した言葉でしょう。
「彼はこの場所で、自分のおかしたまちがいと、真正面から向き合って生きていました。逃げ出さないで、『やぶの殺し屋』とよばれていた時の自分を乗りこえ、新しい自分に生まれ変わろうとしていたのです」。破れた人間を見る後藤さんのまなざしは、柔和です。
後藤さんはクリスチャン。神父さんに支えられる子どもたちが手にした聖書にこうあります。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることがない」(ダニエル2:44)。神によって興される永遠に滅びることのない国は、自分たちの住む国が終わることのない内戦によって破壊しつくされた子どもたちと後藤さんのヴィジョンになったでしょうか。
もと少年兵士のムリアについてはこうあります。「でも、もう、自分が他の人の家族を殺して傷つけるような恐ろしさと痛みの中で生きていかなくてもいいんだ、ということを知りました」。もう、人を殺したり傷つけたりしなくてもいいのです!
十戒の「殺してはならない」(出エジプト記20:13)は、「あなたはもはや殺すことはないだろう」「あなたはもはや殺さなくてもよい」とも読めると聞いたことを思い出しました。
「わたしたちは・・・戦争で傷ついた人たちにさまざまな方法で手をさしのべなければならないと思います。今、自分が生きているこの時を同じように生きている人(隣人)に、わたしはまず何をしたらいいのか? この本が、そう考えるきっかけになってくれればと願っています」。
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)。
後藤さんの人生、そして、最新の行動もまた、「わたしはまず何をしたらいいのか?」という問いへのいのちがけの答えだったのではないでしょうか。