「ことばの魔術師 井上ひさし」(菅野昭正編、2013年、岩波書店)
井上ひさしさんの小説や演劇について、阿刀田高さん、小田島雄志さん、小森陽一さんらが語っています。シリーズ講演を起こしたものなので、とても読みやすいです。けれども、井上文学について、掘り下げたことが述べられています。
「井上さんは、究極的には極めて本気の人です。茶番の人ではありません。人生において大切なのは本気である、ということを通した人です。ただ、茶番を目くらましにいっぱい使う」とは阿刀田さん。
茶番は、「本気」が「まじめくさっている」「お高くとまっている」にならないための仕掛けでありながら、仕掛けそのものにも「本気」が滲み出ているのが井上文学だと思います。
「はっきり申し上げますけれども、井上さんはノーベル賞を受けるにふさわしい作家でした」とも阿刀田さん。そう思います。故人には授与できないのでしょうか。知名度のわりには日本でもあまり読まれていない感じもします。もっと手に取ってほしいですね。単なるユーモア作家ではないのです。井上さんの小説や戯曲は、歴史に肉迫し、歴史に残る文学なのです。
「こういうことばは、井上ひさしの芝居にはしょっちゅう出てきます。頭で理解することばというのは、そこで「わかった」となる。すると、そのことばは、観客のなかではすぐに消えてしまうんです。腹で聞く、腹に響くことばというのは、幕が下りて劇場から出ても、家に帰って風呂に入って、寝床に入ってからもドシンと、腹にまだその響きが残っているのを感じたりする」とは小田島さん。
心当たりがあります。ぼくは人前で話すことを仕事にしていて、「わかりやすい」とはよく言われますが、「こころに残っている。腹にズシンと来た」とは言っていただいた覚えがないのです。わかる言葉よりも沈む言葉をわが唇に、です。
一番おもしろかったのは、小森さんによる「遅筆堂にいたる七本の道」です。「遅筆堂」とは井上さんのことですが、七本の一本目は「江戸の戯作者と江戸時代の人たちから学ぶ道」、二本目は「文学者の評伝劇という独自のジャンルを構築する道」です。井上さんは、漱石、一葉、太宰、多喜二、チェーホフなどの文学者を主人公にしたおもしろく、深い劇を書いていますが、これは井上さんが始めたジャンルだそうです。
三本目は「日本と日本語へのこだわりの道」、四本目は「ユートピアへとむかう道」です。これは、「ひょっこりひょうたん島」に始まり「吉里吉里人」へと大成します。
五本目は「戦争における死者の記憶をたどる道」。広島で原爆死した父と娘の二人芝居「父と暮らせば」の中で、父は「おまいはわしによって生かされとる」「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ」と娘に語ります。
六本目は「戦争責任と戦後責任の間を往復する道」、七本目は「日本国憲法を実現する道」です。さきほども出てきました「吉里吉里人」の「吉里吉里国」憲法第九条は日本国憲法第九条を盗んだものだと登場人物が明言しています。
こうして見ると、井上さんは、江戸、明治、大正、戦前、戦後の歴史と格闘し、未来を描こうとしたスパンの大きな大作家なのではないでしょうか。